マルマリスの夕焼け【無職放浪記・トルコ編(20)】
トルコの地中海沿いの街マルマリスへは、アンタルヤから直行のバスで向かうはずだった。
しかし、私の不注意から直行バスを乗り逃したことで、カシュ、フェティエといくつかの街を寄り道することとなる。ひとまず行けるところまで行こうとカシュに向かったら、そこで出会った韓国人の旅人ジュン君にフェティエのパラグライディングのことを教えてもらい、そのままフェティエに行ったという流れだ。
そんな“地中海沿いの街巡りの旅”も、ようやく当初の目的地であるマルマリスに行き着くことができた。
マルマリスはトルコ南部のリゾート地で、ギリシャのロドス島への玄関口でもある。ここでフェリーに乗って、ロドス島へ渡るというのが私の旅の計画だった。
ところが予定外の事態というのは連鎖するもので、私の計画はあえなくご破算となる。
「え、ロドス島行きのフェリーは満席なんですか?」
私はフェリーのチケット売り場で調子外れな声をあげる。
なんと、マルマリスからロドス島へ渡る明日のフェリーは「フル」、つまり満席というではないか。ならばと次の日の便を調べてもらったが、こちらも満席だという。私は打ちひしがれて、売り場を後にした。
しかし、よく考えてみれば容易に想像できる事態でもあった。
下旬に入っているとはいえ、今は観光シーズン真っ盛りの8月。しかも明後日からは週末に入る。さらに行き先は欧米の観光客に人気のバカンス地であるロドス島なのだ。どうあがいても身動きの取れるような状況ではない。
要するに、私の計画が楽観的すぎるのである。
ずさんとも言う。
ならばフェリーの空き便が出るまでマルマリスにのんびり滞在すればいいという話なのだが、そうもいかない。マルマリスもまたリゾート地なのだ。ホテル代は高騰し、私は一泊600リラ(約5400円)という贅沢な値段で宿泊していた。長期滞在はできない。
もう一つ、私がマルマリスに長居をしたくない理由があった。
なんとなく、この街が体に合わないのである。
寂れた、というのは言い過ぎかもしれないが、私がこれまでに訪れたトルコのリゾート地に比べると活気がないような気がする。海沿いの道や綺麗に整備された公園を除くと、街全体の建物が古く味気がない。歩いていると、もの寂しさを感じるのだ。
さて、ロドス島へ行く手段がないのなら、次の手を考えねばならない。
トルコの地図を眺めた私は、イズミルへと向かうことにした。イズミルはトルコ西部にありイスタンブールに次いで発展した都市である。この街からならば、ギリシャのアテネに行く便もあるだろう。
どうやら、“地中海沿いの街巡りの旅”はまだ続くようだった。
* * *
街並みは特に心惹かれなかったマルマリスだが、この街から眺める海と夕日は文句なく美しかった。
夕方にビーチの対岸の埠頭に来た時は、太陽は厚い雲の向こうに隠れていた。この日は夕焼けを見ることができないかなと思っていると、山の端に沈む前に太陽が一瞬だけ顔をのぞかせた。
その光は弾けるような力強さだった。まるで溜め込んでいた光を一気に放出したかのようだ。
少々古臭いが、太陽の強い光を“ギラつく”と表現することがある。私が見たマルマリスの夕日は、まさに“ギラついて”いた。
夕日が完全に山の向こうに沈んだ後も、私はしばらく埠頭に座ってオレンジ色の光を写す海を眺めていた。
一ヶ月近く滞在したトルコの旅ももうすぐ終わろうとしている。
エジプトからトルコに移る時もそうだったが、一つの旅の終わりにはどうしても不安になる。自分は後悔なくこの国を去ることができるのだろうか、と。まだやり残したことがあるのではないだろうか、と。先ほど見た太陽のように、残った全ての光を吐き出すことはできたのだろうか、と。
いやいや、トルコの後も旅は続く。燃え尽きようとするのはまだ早い。そう考え直した時に、次のような疑問が頭をよぎった。
——まだ早い、なら。“いつ”なのだろうか。
と。
いつ自分は燃え尽きることができるのか。この旅の全てが終わって、日本へ帰国する直前だろうか。そもそも、何をもって燃え尽きたと定義をすればいいのか。
旅の終わりを考えるのはまだ早い。まだ早いと理解しつつも、どうしても不安に駆られてしまう。
自分は本当に後悔なく旅を終えることができるのか、と。
夕暮れの空に残った光の残滓は、私の焦燥する心を映したかのようだった。