旅の偶然【無職放浪記・トルコ編(18)】
旅にはどうしても“偶然”というものがついて回る。
良い偶然があれば悪い偶然もあり、たまたま迷い込んだ道の先で絶景を見つけることもあれば、つまづいた先に牛の糞が待っていたなんてこともある。
しかし面白いことに、悪いと思っていた偶然が巡り巡って良い偶然に繋がるという結果にもなる。例えばつまづいて足についた牛の糞を洗い流そうと近くの民家で水をもらったら、そこの住民と仲良くなった……なんて展開もあるのだ。
これをことわざでは『禍福は糾える縄の如し』というのだが、旅では禍と福がくるくると裏返る場面に出くわす機会が多い気がする。
むしろ、旅とは偶然で編んだ縄の上を歩く行為であるとさえ思えるのだ。
* * *
「え、マルマリス行きのバスはもうないんですか?」
バスターミナルの受付で、私は調子外れな声をあげた。
トルコのリゾート地アンタルヤを離れて、地中海沿いの街マルマリスを目指そうとしていた矢先のことだった。
バス会社の男性が言うには、アンタルヤ発マルマリス行きのバスは正午に「フィニッシュ」してしまったという。スマホの時計を見れば、今は午後0時20分。あと少し早くバスターミナルに着いていれば間に合っていた。
——やっぱり普段と違う行動をしたのが悪かったんかな。
私がそう思ったのには、ある理由があった。
バスターミナルに来るまでの道中で、トルコの菓子店を見つけてふと寄ってみることにした。基本的に甘いものがあまり好きではない私だったが、なぜかこの時は「甘味が食べたい」という気持ちが湧き上がってきたのだ。
トルコには薄い生地にナッツを挟んで蜜をかけた「パクラヴァ」という伝統的な焼き菓子がある。見た目が工芸品のように美しく、観光地ではあちこちでこの菓子を提供している店を見かけた。
私が入ったのは、観光地から離れた地元向けの店だった。簡素な白いテーブルが並べられた店内には3人組の男性客がいるのみ。私はケースの中のパクラヴァを指差し、追加でチャイを頼んだ。
一切れ食べてすぐに歩き出す予定だったのだが、店員のおじいさんはたっぷり6個の菓子を皿に盛ってやってきた。しかも注文していないアイスクリームまで付いてくる。
何か変な注文でもしてしまったのだろうか。甘味に支配されたテーブルを前にして、少々気後れする。
意を決してパクラヴァを一口食べると、サクサクした食感の生地からじゅわっと蜜の甘みが溢れ出す。続いてピスタチオの風味が広がった。
おいしいことにはおいしい。
だが、甘い。あまりにも甘すぎる。
私は無糖のチャイを間に挟みつつ、少しづつパクラヴァを食べていく。アイスクリームの甘さがほどほどに抑えられていたのが救いだった。
なんとか完食して会計をすると、合計で60リラ(約480円)だった。意外と安価だったことに驚く。もしかすると、アイスクリームはおまけで付けてくれたのかもしれない。
満足はできたのだが、パクラヴァを食べるのに時間がかかってしまったせいで店を出る頃には正午を回っていた。かくして、私はマルマリス行きのバスを乗り逃してしまったのだ。
——うーん……予定が狂ってしまったな。
オンシーズンで宿代が高騰しているので、アンタルヤにもう一泊するのは避けたい。とにかくバスに乗ってどこかには行きたかった。
トルコの地図とにらめっこをして、私はアンタルヤとマルマリスの中間に位置するカシュという街に向かうことにした。
全く聞いたことのない街だったが、一晩の宿ぐらいは見つかるだろう。そう気楽に考えていた。
しかし、その楽観的予想はたやすく覆る。
バスに3時間ほど揺られて到着したカシュの街は、意外にも活気のある港町だった。いや、港町というより立派なリゾート地と言った方がいいかもしれない。海沿いの道にはオープンテラスの飲食店が軒を連ね、港には観光客を乗せる遊覧船が何隻も停泊している。
なんだか嫌な予感がした。もしや、この街もハイシーズンのあおりを受けて宿代が高騰しているのではないだろうか……
その予感は当たった。カシュではほとんどの宿が満室で、ようやく見つけた空き部屋も一泊700リラ(約5600円)と想定の2倍以上の値段だった。
——こんなことならアンタルヤで400リラの宿にもう一泊して、次の日に改めてマルマリスに向かえばよかった。
私は心の中で後悔をにじませながら、坂の多いカシュの街をあちこち歩き回った。
しかし、カッパドキアの街ギョレメでも粘りに粘った末に格安のゲストハウスを見つけることができたように、旅の中で磨かれた私の“安宿嗅覚”はこの街でも冴え渡った。中心地から外れ、しばらく坂を登った先でドミトリーの部屋を備えたゲストハウスを発見することができたのだ。
一泊300リラ(約2400円)とドミトリーにしてはやや割高だったが、ここ以上の条件の宿はもう見つけることはできないだろう。私はすぐに宿泊を決めた。
ベッドにバックパックを置くと、私はスマホと財布だけを持ってカシュの街へ出ていく。カシュはこじんまりとして歩いて回りやすい街だった。
ただ、レストランがどこも観光客向けばかりで、手頃な食堂が見つからない。私は屋台でミディエ・ドルマを買って夕食とすることにした。
ミディエ・ドルマとは“ムール貝のピラフ詰め”とでも呼ぶべき屋台料理で、貝の中に身を混ぜた小さなおにぎりのようなピラフが詰まっている。手頃に食べられるのが特徴で、トルコの海沿いの観光地ではどこでも目にする。
イスタンブールで食べた時は1つ5リラ(約80円)だったのだが、カシュでは10個で40リラ(約360円)と少しお得だった。
リカーショップでビールを買うと、海が見えるベンチに腰を下ろしてミディエ・ドルマを食べる。食べる際に一緒に付いてくるレモンを絞ると、さっぱりして味が変化する。
夕食を終えると、腹ごなしに街歩きを再開する。日が落ちてから、道は観光客で混み出すようになった。私は人が少ない岸壁に移動すると、腰を下ろして夜の海をゆっくりと進む遊覧船を眺めていた。
宿に戻ると、ドミトリーの相部屋の人が帰ってきていた。アジア系の若い青年だ。
挨拶をしてお互いに自己紹介をする。彼は韓国から来た23歳の学生で、名前をジュンといった。
同じアジア人だから緊張なく話せたというのもあるだろう。普段よりも会話が弾んだ。ジュン君はパイロット養成学校を卒業し、就職までの休暇で海外を旅しているのだという。トルコが1カ国目で、これからスペインや南米を回るのだと話していた。
トルコで回った街の話になり、私はアンカラやカッパドキア、アンタルヤに行ったことを話した。私が右回りにトルコを巡っているのとは反対に、ジュン君は左回りでカシュまで来たという。
「フェティエには行きましたか?」
ジュン君に尋ねられて、私は何度か街の名前を聞き直した。聞き慣れない名前の街だったからだ。
「フェティエはパラグライディングが有名で、スイスのインターラーケンとネパールのポカラに並んで聖地と呼ばれているんです」
私はジュン君の話に興味を惹かれた。パラグライディングの“三大聖地”と言ったところだろうか。そんな場所がカシュからバスで1時間ほど行った先にあるという。
これまでの人生でパラグライディングをやりたいと思うことはなかったのだが、いざ機会を目の前にすると俄然興味が湧いてきた。
「いいね。明日はフェティエに行ってみるよ」
そう伝えるとジュン君は嬉しそうに笑った。
おかしなものである。
気まぐれで菓子店に寄ってマルマリスへの直行バスを乗り逃したことで、カシュに来ただけではなくフェティエにも寄り道をしようとしている。
自分が一体どこへ流れていくのか……旅の偶然に身を任せているふわふわした感覚が、なんだか心地よく感じた。