パルテノン神殿とアテネの街歩き【無職放浪記・ギリシャ編(3)】
異国を旅していると、自分に合う街と合わない街があることに気がつく。
何が合って何が合わないのかはうまく言葉では説明できないが、すっと体に馴染むか、いつまでも違和感を感じているかという言い方がわかりやすいかもしれない。
そうした意味では、ギリシャの首都アテネは私にとって“合わない”方の街だった。
* * *
フェリーでキオス島からアテネの港に渡った私は、近くの駅まで歩いていき電車でオモニア広場へ向かった。オモニア広場周辺には手頃な料金のホテルが集まっていると聞いたことがあったからだ。
オモニア広場の中央には大きな噴水があるのだが、着いたのが朝早い時間だったためか水は止まっている。周辺は大きなショッピングモールや商店が並んでいて、買い物に便利そうな場所だ。
安宿を探して街を歩いている間、なんとなく違和感を感じていた。街並みがゴミゴミしていて暗いというのはあるが、あまり歩いていて楽しさが湧き上がってこないのだ。安価なホテルもなかなか見つからず、一泊40ユーロ(約6000円)という返答が続いた。
しばらく歩いた後に、ようやく風呂トイレは共用で28ユーロ(約4200円)という宿が見つかった。決して安くはないのだが、大通りに面したテラスがあるのが気に入った。私はこのホテル『エフェソス』をアテネでの拠点に決めた。
部屋にバックパックを置くと、パルテノン神殿がある方へ歩き始める。アテネの象徴であるパルテノン神殿は、古代ギリシャ時代に建設された神殿で女神アテナを祀っていた。アテネという都市の名前は、この女神アテナに由来しているのだ。
道の途中で市場を見つけたので、立ち寄って冷やかす。市場のすぐ近くにスブラキ屋があったので、昼食にスブラキサンドを買って食べた。
スブラキというのはギリシャの串焼き料理だ。パンに挟んで串を引き抜きサンドイッチにすることもあれば、串からそのまま食べて酒のつまみにすることもある。とにかく万能かつ安くてうまいので、キオス島で初めて食べた時から「スブラキがあればギリシャでは飢え死にしない」と確信を持つほど気に入っていた。
アクロポリスの丘の上に立つパルテノン神殿を目指して歩いていたのだが、細い路地をくねくね曲がってもなかなか近くことができない。一度思い切って左に進むと大通りに出て、パルテノン神殿へ続く坂道を見つけることができた。
神殿への入場チケットは12ユーロ(約1800円)だった。窓口の女性に「25歳以下なら割引になるよ」と言われて、一瞬「そうです」と答えかけた。何しろアジア人は欧米では若く見られがちな傾向がある。年齢確認をされない限りは詐称がばれない自信があった。
しかし、こんなことで節約をしてもしょうがない。私が正直に「25歳以上です」と答えると、女性は少し驚いた様子だった。
チケット売り場からパルテノン神殿までは急な坂道を登っていかなくてはならない。なぜこんな険しい丘の上に神殿を建てたのかと言うと、防衛のためだと聞いたことがある。古代ギリシャの時代ではポリス(都市)の中心となる重要な施設は、攻められにくい丘の上に建設していたという。
確かにこんな急な坂を登って攻撃するのは無理があるよなと思いながら、私は炎天下のアクロポリスを登っていく。途中にいくつか劇場の廃墟などの観光スポットはあったのだが、暑さと疲労で立ち止まってじっくり見る余裕はなかった。
丘の上に登り、門をくぐるとパルテノン神殿の白い柱が見えてくる。
写真や映像で何度も見た通りの建造物がそこにはあった。想像よりも小さく見えるのは、雄大さよりも物悲しさ、あるいは哀愁といった印象が強く感じられるからだろうか。
パルテノン神殿は度重なる戦争に巻き込まれ、その度に取り返しのつかない破壊を受けた。アテネの“象徴”であったがために、敵国からは真っ先に狙う対象に映ったのだろう。
神殿の内側を歩くことができれば当時の荘厳な姿を想像できるかもしれないと思ったのだが、残念ながら少し遠巻きに眺めることしかできない。もちろん、エジプトの神殿のように柱や像にペタペタと触ることも許されていない。
どこの有名観光地でもそうなのだが、やはりパルテノン神殿周辺も観光客による撮影会場と化していた。自撮りやタイマー撮影のほか、代わる代わる写真を取り合う集団の姿もある。
自分も観光地に行けば写真は撮るし、時々自撮りもするので文句を言える立場ではないのだが、どうしても「ここはスタジオかよ」と少々げんなりしてしまう。
神殿の周囲を歩いていると、ひとり旅の青年から「写真を撮ってくれませんか」と撮影を頼まれた。スマホを受け取って、青年とパルテノン神殿が一緒に写った写真を撮ろうと構えたのだが、なかなか構図が難しい。神殿を横に置こうとすると、空間がぽっかりと空いて散漫な写真になってしまう。かと言って神殿をバックにすると、白の建造物は途端に存在感を失ってしまうのだ。
どちらの構図も撮ったのだが、青年が満足していたのは自分が前に立ち、後ろにパルテノン神殿が収まる写真だった。そこに写る神殿は、なんとも味気ない壁紙のようだった。
丘の上からアテネ市内の景色を一望すると、私はもやもやした違和感を抱えながら下り坂を歩いていった。
この違和感はアテネのどこを訪れても私につきまとってきた。
考古学博物館を訪れ、女神像の数々やあの槍を持った姿で有名なポセイドンの像を見たが、心の底からこみ上げてくるものは感じなかった。趣向を変えて現代美術館に行き、前衛的なアートの鑑賞もしたが、こちらもあまり馴染むことができなかった。
唯一「おっ」と興味を惹かれたのは、トルコの建国記念日のイベントの様子を映したドキュメンタリー映像だ。そこには大きな競技場内でパフォーマンスをする兵士たちや、国家を讃える言葉を合唱する子供たちの様子が映し出されていた。
トルコとギリシャは“侵略した側”と“侵略された側”の関係で、決して良好とは言えないはずだった。それなのになぜトルコの勇姿を見せるような映像作品を上映しているのか、経緯が気になった。
それと同時に、ドキュメンタリー映像が持つ力強さに改めて感銘を受けた。それは過去の遺物を眺めているだけでは感じることができない感動だった。
美術館巡りを終えると、あてもなくアテネ市内を散策する。
これまで訪れた街は、大体どこでもベンチかどこかに座ってのんびり落ち着ける場所を見つけられていた。しかし、アテネではどこを歩いても「ゆっくりできる」と思える場所が見当たらない。
——どうも、アテネという街は自分に合わないな。
違和感を抱えながら移動を続け、オモニア広場から東に数百メートル歩いた場所にあるシンタグマ広場を訪れた時だった。
広場から階段を上がって道路を挟んだ先で、人だかりができているのが見えた。信号待ちをするのが億劫だったので何が行われているのか確認するためにそこへ行くか悩んだが、結局“野次馬根性”を出して覗いてみることにした。
そこは国会議事堂前にある『無名戦士の墓』と呼ばれる場所だった。独立戦争など幾多の戦争の中で命を落とした兵士たちを祀る碑が建てられている。
その碑の前で、銃を持った2人の兵士が全く同じタイミングで腕と足を振り上げ、ゆっくりと歩いていた。兵士が足を降ろすたびに、ブーツがカッ、カッと軽快な音を立てる。2人の動きは、操り人形の踊りのようだった。
2人はすれ違うと、そのまま同じ動作で碑の端と端まで歩いていく。そこで直立不動の体勢となり、碑の警備を始めた。どうやら私が見たのは警備の兵士が交代する様子らしい。
その一部始終を眺めていた私は、ドキュメンタリー映像を目にしているような不思議な気持ちになった。
兵士交代式の様子を見て、急にアテネが受け入れられるようになった……ということはなかったのだが、街歩きをしている間抱えていた違和感がいくらか和らいでいることに気が付いた。
どうやら私は、目の前で何かが起きることを期待していたらしい。
私がパルテノン神殿などに対して違和感を抱えていたのは、もしかすると予想や想定がそのまま目の前に現れることが続いて退屈していたからかもしれないな、と思ったのだった。