船出の刻【無職放浪記・トルコ編(22)】
トルコ西部の都市イズミルからギリシャのレスボス島へ渡るつもりが、15分差でフェリーを乗り逃した私は、失意のうちに宿へと帰ってきた。
一体自分はいつになったらトルコを出ることができるのだろうか。それとも、アナトリアの大地に骨を埋める運命にあるのだろうか——
藁にもすがる思いで宿のおやじに相談してみると、「それならチェシュメに行って、そこからキオス島に渡ればいい」とあっさり助言された。
地図を見てみると、チェシュメはイズミルからさらに西に進んだ半島の先にある。トルコの最西端に位置すると言っても間違いではないかもしれない。そこから目と鼻の先にキオス島という島はあった。
チェシュメまでの行き方を尋ねると、バスターミナルから1日に何便もバスが出ているので心配ないとのことだった。
だけど……と不安もよぎる。
もしチェシュメまで行って、そこでも船に乗ることができなかったら? そうなると、次に向かう先はない。なにしろチェシュメは西の果ての果てなのだ。
イズミルからならば最悪イスタンブールまで戻って、そこから陸路でブルガリアに入ることも可能だ。むしろそのルートの方が確実だろう。
迷った末に、私はチェシュメに向かうことにした。
——どうせなら行き着くところまで行ってしまえ。
ヤケクソな気持ちも、もちろんあったと思う。しかしそれ以上に、自分がこの悪運に勝つのか負けるのか確かめてみたかった。
少々格好つけて言うなら、最後まで戦ってみたかったのである。
たかだか旅の進路で戦いなどと大げさかもしれないが、ここで諦めてしまうと迷い歩いてきた道が無駄になってしまうような気がした。なんのために行き当たりばったりに旅をしているのかわからなくなってしまうような気がしたのだ。
私はおやじに礼を言うと、荷物を抱えて宿をチェックアウトした。
道を走っていた乗り合いバスをつかまえて、バスターミナルまで戻ってくる。チェシュメ行きのバスを調べると、次の便は午前11時に出るようだった。料金は80リラ(約640円)。カードは使えず直接バスの運転手に払う必要があったため、何かあった時のために100リラだけ現金を残していたのが功を奏した。
バスは正午過ぎにチェシュメに到着した。
西の最果てというので荒涼とした場所を想像していたのだが、チェシュメは意外にも美しい港町だった。石畳が敷かれた通りは早くもギリシャの街並みを連想させる。
のんびり街歩きを楽しみたいところだったが、今の状況ではそうもいかない。
私は私自身の悪運との“勝負”の真っ最中なのだ。
バスの発着場からフェリー乗り場までは歩いて20分ほどだった。荷物検査場に立つ男性に止められ「ここから先に行くにはチケットが必要だ」と言われた。
チケットはどこで買えるのかと尋ねると、男性は私が通ってきた道にあるプレハブ小屋を指差し「あそこで買える」と教えてくれた。
この時点でなんだか嫌な予感がした。私もそのチケット売り場の存在には気がついていたのだが、人の気配がしなかったので素通りしてきたのだ。
恐る恐るチケット売り場に来てみると、やはり受付には誰もいない。裏に回ってノックをしてみると、少年がひょっこり顔を出した。
私が「チケットを買いたい」と伝えると、少年は片言の英語と身振り手振りで「ここには誰もいない」と返してきた。それでは「いつ戻ってくるのか」と英語で質問してみたが、残念ながらうまく伝えることができなかった。
もしや、この日のフェリーは全て出航してしまっていて、だから売り場には誰もいないのだろうか? いやいや、諦めるのはまだ早い。もう少しだけ粘ってみよう。
私はフェリー乗り場にとって返し、先ほど応対してくれた男性に「売り場には誰もいなかったが、他にチケットを買える場所はありませんか」と聞いてみた。男性は少し考えた後に、道の反対側の建物を指差す。
「旗が立っている建物が見えるか? あそこの1階にフェリー会社の事務所がある。そこならチケットを買えるはずだ」
男性の言葉に従い、私はトルコ国旗が翻る建物を目指した。もしもこれでどうにもならなかったなら、イズミルに戻ってイスタンブールから陸路でブルガリアを目指そう。もう一回スルタン・アフメト地区の安宿に泊まって、サバサンドでも食べよう。
そんなことを考えながら事務所に入ると、中では男性2人がパソコンで作業をしていた。私が「キオス島に行きたい。チケットは買えますか?」と尋ねると、奥の男性が手招きをする。
「次のキオス島行きのフェリーは午後3時半だ」
男性はあっさりと答えた。どうやらまだ便は残っているらしい。
「それに乗ります」
「支払いはキャッシュ? カード?」
「カードでお願いします」
支払いはトルコのリラではなくユーロだった。クレジットカードで20ユーロを支払うと、男性はコピー機で印刷したチケットを封筒に入れて手渡してくれる。
私はオフィスを出ると、手に入れたキオス島行きのチケットをまじまじと見つめた。あれほど苦戦したトルコ出国の手段がこんなにも簡単に手に入った。あとは時間になったらフェリーに乗るだけだ。
ようやく。ようやくだ。
ようやく、トルコを出国することができる。
たかだかフェリーのチケットを手に入れたというだけなのだが、不思議な達成感を感じた。
出航まで少し時間があったので、昼食を取ることにした。トルコ最後の食事はせっかくなのでトルコらしいものを食べようと思っていたのだが、店を探す余裕まではなかったため、結局ピデを食べた。
ピデとは、トルコ風のピザのような料理だ。生地が細長いのが特徴で、釜で焼いた後に食べやすいサイズにカットして皿に盛る。
私はひき肉とチーズが乗ったオーソドックスなピデを注文した。飲み物は滞在中にすっかり愛飲するようになったトルコ風の飲むヨーグルトであるアイランにする。ピデはもちもちした厚手の生地で、たっぷり乗ったチーズと絡んで濃厚な味わいだった。
2時半にフェリー乗り場に戻り、簡単な荷物検査や出国手続きを済ませる。港にいた職員らしき男性にチケットを見せて「どの船に乗ればいいのか」と尋ねると、男性は船体の横に「CHIOS」と書かれた小型船を指差した。
紹介された船には誰もいなかった。まだ時間が早いからかなとベンチでのんびり過ごしていたのだが、出航の5分前になっても誰も来ない。さすがに怪しいと思い船を飛び出し、港を走り回った。私の悪い予感は当たり、キオス島行きの便は別の船だった。どうやら私は間違った船を紹介されてしまったらしい。違和感に気づかなければ、危うく乗り逃すところだった。
——まったく、これだから……最後まで気を抜けないな。
私は苦笑しながら、チケットを船の職員に見せた。
キオス島行きの船には家族連れと男性2人組が乗船していた。私が船に乗ると、すぐに出航準備が始まる。もしかしたら待たせてしまっていたのかもしれない。
船が動き出し、ゆっくりと港を離れていく。私はデッキの上で柵に体を預け、トルコの景色が遠のいていくのを眺めていた。
1ヶ月過ごしたトルコとも、これで本当にお別れである。
居心地のいい国だった。きっとこれからの旅の中で、「トルコは良かったなあ」と恋しく思い出すことだろう。
しかし、今は留まるよりも先に進んでいきたい。まだ見ぬ国へと踏み出す興奮が、私の体の奥底から湧き上がってきていた。
船はどこまでも青い地中海を進んでいく。小山の上に立つ赤いトルコ国旗が、手を振るように風になびいていた。