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エイルディル湖を望む【無職放浪記・トルコ編(14)】

 カッパドキアの街ギョレメに滞在している間、私は周辺の奇岩スポットに歩いて出かけていってはヘトヘトになって戻ってくるというのを繰り返していた。
 ラブバレーとローズバレーに行き、妖精が住んでいたという可愛らしい言い伝えが残る『妖精の煙突』という場所も訪れた。はっきりと測ったわけではないが、ここ数日は1日20キロは歩いていたと思う。

『妖精の煙突』。岩の上部が小さな家のように見える

 そんな日々を過ごしていたからだろうか。ある朝目覚めると、体が異様に疲れていることに気がついた。いつもは一晩寝れば回復できていたのだが、どうも体の奥底で疲労が溜まっているような感覚がある。

 ——どこか落ち着ける場所でゆっくり過ごしたいな。

 そんな思いでトルコの地図を眺めていると、しばらく西に進んだ場所に湖がいくつか点在していることに気がついた。調べてみると、この一帯は湖水地方と呼ばれているらしい。

 湖水地方。
 優雅な名前の響きが気に入った私は、次の目的地をこの場所に決めた。

 ギョレメのバスターミナルに行ってバスの予定を訪ねてみると、湖水地方の中心都市であるエイルディルという街に向かうバスが13時に出るという。私はその場でチケットを買うと、宿に引き返してチェックアウトをした。
 長時間バスに揺られることは覚悟していたが、故障によるトラブルで立ち往生したこともあり、エイルディルに到着した時には午後10時半を過ぎていた。

夜遅くにエイルディルに到着

 夜に街に到着することは今までにも何回かあったが、ここまで遅い時間になるのは初めてのことだったので心細さを感じる。バス乗り場周辺をうろつき回って、細い路地の先に「OTEL」の文字を見つけた時は心底ホッとした。

 誰もいないロビーで呼び鈴を鳴らすと、大柄な女性が出てきた。英語は通じなかったが、ジェスチャーで一泊したいことを伝えると、女性は電卓を叩いて「450」という数字を表示した。
 450リラ。約3500円だ。
 これまでの旅で宿泊してきた宿の相場からすれば高い料金だが、これから違う宿を探す気力はない。今日はこの部屋に泊まることに決めた。

路地を曲がった先に見つけた「OTEL」

      *  *  *

 翌朝、朝食を食べるためにホテルのテラスに上がると、街のすぐ近くに山があることに気づいて驚いた。前日の夜に来た時は闇の中に溶け込んで見えなかったのだ。
 湖があり、山があり、古城がある。いい風景のある街に来たなと嬉しくなった。

エイルディルの自然と街並み

 朝食を食べ終えた私は、湖沿いの散歩を始める。朝の新鮮な空気を吸いながら静かな湖面を眺めて歩いていると、心が穏やかになっていく。
 エイルディルという街は、湖に突き出た細長い半島のような形をしている。朝の散歩では、半島の先の方へと歩いていった。

湖沿いを歩いていく

 途中、地元の住民らしき男の子が凧揚げをしているのを見つけた。少年は1人で凧を持って飛ばそうとしているのだが、うまく風が捕まえられずに悪戦苦闘している。
 手を貸してあげようと思い挨拶をしたのだが、少年は私の姿を見ると楽しそうな表情を引っ込めて逃げるように去ってしまった。

 ——ありゃ。怖がらせてしまったかな。

 私は自分が人畜無害な草食動物のような外見であるという自覚があるのだが、子供からすればよく分からない外国人が近づいてきたことには変わりない。少年の反応は正しいように思えた。

 半島の先端の地域はキャンプ場になっていた。キャンピングカーが並んでいるほか、テントを張って楽しんでいる家族連れの姿もある。湖に沿ってぐるりと一周すると、また元の中心街に戻っていった。

 散歩の途中にゲストハウスのような宿を見つけたので、ホテルに戻って荷物を取りそちらに引越しをする。ゲストハウスはドミトリーの部屋で一泊250リラ(約2000円)と決して安くはなかったが、イスタンブールなどの都会のように同業との価格競争が行われてなければこんな料金だろう。

移った先のドミトリー部屋

 午後は山の方へ向かってみることにした。歩いた先に何があるのかは知らないが、高い場所から街を見下ろせば新しい発見があるかもしれない。

 住宅地を歩いていると、車のエンジン部分をいじっていた豊かな髭のおじさんが顔を上げて私に声をかけてきた。

「*************チャイ?」

 おじさんが話しているのはトルコ語で、何を言っているのか全く理解ができなかったが、かろうじて「チャイ」という言葉だけ聞き取ることができた。

「イエス、チャイ」

 私がとっさに話を合わせると、おじさんは笑顔で道の先を指差した。その後にグネグネと曲がるようなジェスチャーをする。おじさんはその間もトルコ語で説明をしてくれていたのだが、全く聞き取ることができない。
 とにかく「チャイが飲める場所がある」「そしてそれはグネグネ曲がった道の先にある」ということだけはなんとか理解することができた。

「テシェキュル」

 私は発音が難しいトルコ語の「ありがとう」を伝えると、おじさんと別れた。
 指で指示された方の道をとにかく歩いていくと、「CAFE」という文字と矢印が書かれた電信柱を見つけた。どうやら確かにチャイが飲める場所があるようだ。

矢印が書かれた電信柱

 さらに先に進んでいくと、石壁に同じ言葉と同じマークを見つける。これだけあちこちに案内があるということは、よほど見つけづらい場所にあるのか、もしくは店長が心配性なのだろう。
 グネグネした坂道を登り、たどり着いたのは見晴らしのいい高台にあるカフェだった。

 ——なるほど。このカフェを目当てに来る人がいてもおかしくないな。

 カフェからはエイルディル湖と街を見渡すことができた。湖は海のように遠くまで広がり、その先にかすかに山が見える。
 評判になっていてもおかしくない絶景だ。きっとこの場所を目指して来る観光客は多いのだろう。だから道中で会ったおじさんは、このカフェを案内しようとしていたのだ。

カフェからの景色①
カフェからの景色②

 カフェは高齢の男性が1人で切り盛りしているようだった。私は景色がよく見えるテーブルに座るとチャイを注文した。
 すぐにチャイグラスに入った熱々のチャイが運ばれてくる。私が「グッドビュー」と伝えると、チャイを持ってきた老人は「そうだろう」と言うように自慢げに頷く。

 私はチャイに角砂糖を二つ入れてかき混ぜる。甘いものは苦手なはずなのだが、トルコで飲むチャイは砂糖を入れた方が不思議とおいしく感じるのだ。

 カフェの客は私1人だったのだが、2杯目のチャイを頼んだあたりで3人の女性客が来店した。彼女たちもチャイを頼むかと思って観察していたのだが、老人が運んできたのはグラスに入った黒紫色の飲料だった。
 あれは何の飲み物だろうか。ワインにしてはドロッとしているような。

 気になった私は、店主の老人にジェスチャーであれは何かと尋ねてみた。老人は「カラドゥト」と短く答えた。

 ——カラドゥト、カラドゥト。

 初めて聞く響きだ。私は2杯目のチャイを飲み干した後に「カラドゥト」と注文した。
 運ばれてきたグラスから黒紫の液体を飲むと、ドロリとした舌触りが広がった。味はベリーのようだが酸味がなく、ほのかな甘さがある。プチプチとした食感の種が混じっていて、口の中で噛みながら果汁を味わうことができた。

カラドゥトのジュース

 調べてみると、カラドゥトとはクロミグワのことらしい。いや、クロミグワという果実のことも今初めて知った。ブラックベリーのような見た目だがイチゴの仲間ではなく、クワの一種だという。

 カラドゥトのジュースを飲みながら、エイルディルの風景を眺める。
 なんとも気持ちの良い時間だった。

 そう感じているのはカフェの居心地の良さもあるだろうし、エイルディル湖の美しさもあるだろうし、初めて飲むカラドゥトのジュースの素朴な味わいもあるだろう。全てが混じり合って、私の心の中に流れ込んでくる。

 旅をしていると、“甘美”としか表現できない時に出合うことがある。
 それは間違いなく今だな、と感じた。

エイルディルのカフェで甘美な時間を過ごす

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