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新しい研究は、まず人間を知ることから。「幸せ」の追求が、大企業を動かすソートとなるまで ~対談・日立製作所 矢野フェロー 兼 ハピネスプラネット代表×IISE 藤沢理事長
自社の考え(ソート)を社会に広く発信し、共感する仲間を集めて実現を目指す「ソートリーダーシップ(Thought Leadership)活動」。これを体現している企業の経営層やキーパーソンの方々との対談を通じて、「ソートリーダーシップ活動」のヒントを探っています。
第12回のお相手は、日立製作所フェロー兼ハピネスプラネット代表の矢野和男氏。入社から20年は半導体一筋だった矢野氏でしたが、日立製作所がその半導体事業が撤退を決めます。そこから大きな企業の中で独自のソートを、新規事業として実現するまでに、どのようなことを進めてきたのか。挑戦の道程と、現在に至るまで大切にしていることをお聞きしました。
20年間半導体一筋の研究者が、新規事業づくりに挑んだ時
藤沢 矢野さんは、日立製作所で約20年間半導体研究の先頭を走って多くの実績を残されました。2002年に日立製作所の半導体事業撤退後に、新規事業としてウェアラブル技術やビッグデータの収集・活用技術で社会科学分野を牽引し、今は「ハピネス(幸せ)」に科学の光を当ててウェルビーイング分野をリードされています。さらにAIを活用したアプリ開発など活躍の場が広がっています。矢野さんのキャリアにおいて、半導体とはどのような位置づけになるのでしょうか。
矢野 私の半導体研究で最も知られているのは、1993年に単一電子メモリの室温動作を世界で初めて成功させたことです。低電力で、なおかつコンパクトにメモリをつくることができるというビジネスインパクトの大きい研究でした。世界初になると、そこから見える景色も違ってきます。世界中から講演依頼が来まして。週に1回は世界のどこかから講演依頼が来ていましたね。
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藤沢 半導体分野において、世界最先端の研究活動をされていたわけですが、日立製作所の半導体事業撤退によって道が閉ざされました。やり場のない思いからどう脱却し新たな道を進み始めたのでしょうか。
矢野 当時44歳、入社以来ずっと半導体研究一筋だったので、残念な気持ちが大きかったですね。ただ、大学で勉強していたのは半導体ではなく、理論物理学でした。物理は、対象を問わず、「理」を究める学問ですね。半導体事業がなくなって新しい事業づくりに取り組む際に、社会を物理で究明することができたら面白いと思いました。
ちょうどその頃、MITメディアラボ教授のアレックス(サンディ)・ペントランド氏に出会いました。彼が書いた社会物理学の本は、私が日本語版の解説を書きました。2000年頃から、組織や社会の理解にもデータドリブンな研究が活発となってきました。2004年に、私の提案をきっかけに、データに基づく社会物理学の共同研究に関して、MITメディアラボ、MITスローン(ビジネス)スクール、日立製作所の3社で共同研究がスタートしました。
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藤沢 まだビッグデータという言葉もない時代ですよね。
矢野 半導体事業を通して取り組んでいたので、データを収集する装置づくりは得意でした。人やクルマ、工場などさまざまなものを測定しデータを集めました。
集めたデータをどう活用するか。現場で最初に取り組んだのは、ドイツの銀行でした。MITのトマス・W・マローンという有名な教授に紹介していただきました。メールのログデータ、名札型センサーによる行動データ、アンケートの3つを掛け合わせて、「誰がいつどれだけコミュニケ―ションをとっているか」を分析し、データに基づく組織間の連携や統合を提案しました。提案は実行に移され、成果も出たと聞いています。
藤沢 データを使って人間社会を明らかにする研究としては先駆けですよね。しかも研究所ではなく現場ですでにやり始めていたのですね。データ活用の考え方や方向性のヒントになったことはありますか。
矢野 経営学者のピーター・ドラッカーは、「20世紀の最大の偉業は、肉体労働の生産性を50倍上げたこと、21世紀に期待される最大の偉業は、知識労働の生産性を同様に上げることである」と書いています。20年前、この言葉と出会った時に「これだ」と思いました。データ活用なら、知識労働の生産性向上を実現できると直感したのです。
「根拠のない自信」と「俯瞰」が、後押ししてきた
藤沢 知識労働の生産性は、20世紀型の大量生産とは全く異なるアプローチが必要ですね。
矢野 まず着目したのが心理学でした。ミハイ・チクセントミハイ教授(米クレモント大学院大学)が提唱するフロー理論に興味を持ちました。フローとは、行為を楽しみ、創造性も高い状態で集中し、課題に夢中になっている状態です。チクセントミハイ教授にすぐにメールを送って会いに行きました。加速度センサーを使った行動データの分析は、教授の研究にも役立つと思ったからです。教授とは意気投合し共同実験も行いました。
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(出所:ミハイ・チクセントミハイ『フロー体験とグッドビジネス 仕事と生きがい』掲載の図をもとにハピネスプラネット作成)
当時はまた、幸福を科学的に調査、分析する「ポジティブサイコロジー」が米国でブームになっていました。なかでもソニア・リュボミアスキー教授(米カリフォルニア大学リバーサイド校)のポジティブサイコロジーに関する本『The How of Happiness』に共感し、すぐにメールでアポイントを取りました。
藤沢 すごい行動力ですね。
矢野 実は大学入学当初から、「幸せを研究したい」とずっと思い続けていました。その思いがかなうわけですから夢中でしたよ。それでソニア教授ともすぐ意気投合し、共同研究に取り組みました。2012年には、世界最大の学会であるIEEEにて、ソニア教授と共著で「Can Technology Make You Happy? (技術はあなたを幸せにできるのか?)」という幸せとテクノロジーを架橋する分野を提唱する論文を発表しました(IEEE Spectrum 2012)。
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私は理論物理学に関して「根拠のない自信」があったんですね。ポジティブサイコロジー研究の成果の1つに、サイコロジカル・キャピタル(心の資本)があります。未来に希望を持ち、困難に負けず、楽観的に行動する心の状態を指します。この本質は「根拠のない自信」です。人の幸せにも関係することだと思います。
藤沢 「根拠のない自信」は、将来のやりたいことに向けた希望と言い換えることもできるかもしれませんね。ソートリーダーシップは新しい市場をつくり、研究者はソートによって新しい学術領域を拓いていくのだと思います。
一方で、そうした研究が「目的のない手段」とならないために、矢野さんが大切にされていることはありますか。
矢野 「目的と手段をセットで考えるためには、どうしたらいいか」を常に意識しています。ポイントは、俯瞰して物事を見ることです。
大学時代、私はプロのサックス奏者を目指し必死で練習していました。でも、サックスが上手い後輩が現れ、挫折したんです。単なるテクニシャンか、音楽そのものを分かっているか。これが私と彼との決定的な違いでした。研究開発において、専門家は自分の専門分野にとらわれる傾向があります。だからこそ常に俯瞰して、社会や世間の動向を見ることは大切です。
藤沢 成功体験から抜けられない大企業にも、似た課題があると思います。俯瞰して外の世界を見ることで、取り組むべき研究テーマという目的と、それを実現する手段が見えてくるということでしょうか。
矢野 サッカーで例えると、自分が選手だとして、試合中にフィールドを俯瞰してみる。そうして空いているスペースを見つけて、自分で走っていくという感じです。誰も取り組んでいない研究領域を俯瞰によって見出し、そこを攻めていきます。
藤沢 スタートアップの場合は「一歩先では儲からないから、半歩先で起業するのがいい」とも言われます。新しいことを研究する場合、オープンスペースに一番乗りできたとして、仲間はできるのでしょうか。
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矢野 いつまで経っても結果が出ないとやはり仲間はできません。そこはスタートアップと同じだと思います。研究の場合は、何か見せられる結果を出すのが1つの結果と言えます。
藤沢 矢野さんは論文被引用数4500件、特許出願も350件を超えています。世の中に認められたと思うきっかけはありましたか。
矢野 学会の実績はそれまであったのですが、『データの見えざる手――ウエアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則』という本を出したことは、技術分野以外の人に私を知ってもらうきっかけになったと思います。bookvinegarのビジネス書2014年年間ランキングトップ10に選出もされました。こうしたことを契機に、いろんな企業の経営者から「会いたい」というリクエストをいただきました。
藤沢 本を出すと、企業のトップや首長から「話を聞きたい」「講演してほしい」といった依頼が来たりするように、出版には時間や距離の壁を越えていける可能性を秘めていますよね。ソートリーダーシップを進めるうえで、出版が持つ可能性を有効活用するのも一つの手だと感じます。
テクノロジーから生まれるソートこそ、「人間」を見つめなおすこと
藤沢 矢野さんには、新規事業をつくることが求められていたと思います。「理論物理学で幸せを研究する」ことが事業化に結びついていない中で、儲かる事業を志向する経営側との調整はどのようになされたのでしょうか。
矢野 2011年頃、これからはAIとデータが大きなテーマになると直感しました。しかし、その当時は、AIは、「ダメな技術の代表」のように捉えられていました。そんな時期に敢えて日立の中でデータを活用したAIの取り組みに着手しました。反対も多かったのですが、押し通して。
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短期的にビジネスに結びつくものと、中長期的に取り組むテーマとのバランスは大事にしています。実は、社内ベンチャーにも3回チャレンジしています。3回目はある程度話が進んだのですが、社内ベンチャーの限界もあり結局は事業はうまくいきませんでした。
藤沢 2020年にハピネスプラネットを創業したのは、そうした過去の経験があったからなのですね。
矢野 日立製作所グループの一員ではありますが、独立した法人にし、他の会社からの資本も入れることで、意思決定やアクションのスピードアップが図れます。ハピネスプラネットは、「幸せな組織」が持つ特徴や、ウェルビーイングな組織に必要不可欠な「三角形の関係」など、ポジティブ心理学と出会ってからの15年にわたる研究がベースです。
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(出所:日立製作所様「日立の人:職場を幸せにするアプリ「ハピネスプラネット」 研究者の飽くなき挑戦」)
1日1分で組織のつながりを強くするエンゲージメント向上アプリ「Happiness Planet Connect」、社員1人ひとりが本来持っている挑戦意欲や主体性を引き出すAIマネジメントツール「Happiness Planet Connect Energize」など、ウェルビーイング経営の実現に寄与するAIサービスを提供しています。
▼「Happiness Planet Connect」は、1日1分程度タイムライン上でユーザーが「投稿」と「応援」を継続的に繰り返すことで、エンゲージメント向上を支援するアプリ
藤沢 生成AI活用シーンが拡大する中、オープンスペースへ果敢に飛び出すようなAIアプリを開発しましたね。最新の生成AI技術を活用し、各界のトップランナーの考え方や哲学を組み込んだ「Bunshin(分身)」は実にユニークです。
矢野 各分野のトップランナーの考え方や人生哲学を組み込んだ「分身」に個人の悩みや課題を相談できます。企業の観点では、社長や会社の理念や哲学を社員に浸透させるための社長分身をつくったり、上司の分身に相談することで、部下も上司も助かるようにしたりと、さまざまな用途が想定されます。
藤沢 これは本当に面白いと思います。一方で、AIビジネスは競合もどんどん出てくる環境でもありますね。
矢野 生成AIのビジネスでは競合のない分野はありません。今はうまくいっていても、明日には新しいAI技術に塗り替えられます。違う見方をすれば、いつでもひっくり返すことができるわけです。
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藤沢 だからこそ、とにかく取り組みを重ねることですね。ところで、矢野さんにお聞きしたいことがあります。矢野さんの論文のタイトルをお借りすると、AIは人を幸せにできるのでしょうか。
矢野 社会における未来予測の第一人者はドラッカーとして、技術の未来予測はレイ・カーツワイル(未来学者、AI研究の世界的権威、起業家)の右に出る人はいないと思っています。1999年当時に、2019年までに計算処理の多くがニューラルネットワークになると予測して見事に的中しています。彼は「2040年前後には、AIと人間は1つの種になる」と言っています。ここ数年、生成AIにより産業や社会の構造変革が急速に進んでいます。これを、幸せな社会や組織にトランスフォームする方向に持っていくのが、私の使命だと考えています。
藤沢 AIの起こす変革が、人を幸せにする方へと導きたい。それが矢野さんのソートなのですね。
矢野 一方で現代を見渡すと、例えばSNS。これは広告効果の最大化に貢献した反面、誹謗中傷によるメンタルの問題、社会の分断、人間関係の破壊など、世の中を悪くした面も大きいと思っています。同じくAIも、マイナスの方に向かう危険性を大きく秘めています。
今流行している「AIエージェント」には、人の仕事を単純に奪う側面もあります。むしろ大事なのは、AIにより人間の能力を拡張させること。それを具体的に見せていくために「分身」の発展形に取り組んでいきます。人間をよく理解し、テクノロジーをよりよく使っていくことが大事なのです。技術者はもっと人間を知るための勉強をするべきだと思います。
藤沢 幸せという、人間の生きる根源にあるものを大切にし、人間の能力を拡張するためにAIを使っていく。テクノロジー起点のソートリーダーシップで新しい市場をつくっていく時に、最も大事なことを矢野さんは今指摘されたと思います。矢野さんとの対談を通じて、多角的な視点からの考察、俯瞰したものの見方など、ソートリーダーシップにおけるたくさんのヒントを得ることができました。
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<対談を終えて>
矢野さんは元々、キャリアのスタートは半導体でした。入社以来の20年間半導体一筋の研究者が、いきなり新規事業づくりに携わってからの行動からは、多くのヒントと示唆があったと思います。大企業の中で独自のソートを、途中で潰れることなく、社内外を巻き込んで新規事業としていかに具現化していくか。AIやデータ活用といった儲かる事業と、中長期的に取り組む「幸せの研究」のバランスをとることが大事といった矢野さんのお話からは、企業の論理の中でソートを育てるためには時に必要となる戦略への学びがいくつもありました。
また、興味を持った学者にすぐにメールをして会いに行き、意気投合して共同研究をする。その行動力とスピード感は、仲間や理解者づくりを進めるうえで、重要なポイントでしょう。
「テクノロジーを使って幸せな社会や組織にトランスフォームする方向に持って行くのが私の使命」と語る矢野さん。そして、テクノロジーは人を幸せにするために使わなければなりません。こうした言葉は、テクノロジー起点のソートリーダーシップにおいて最も重要なことだと心に響きました。
藤沢 久美
大学卒業後、国内外の投資運用会社勤務を経て1995年、日本初の投資信託評価会社を起業。1999年、同社を世界的格付け会社スタンダード&プアーズに売却。2000年、シンクタンク・ソフィアバンクの設立に参画。2013年~2022年3月まで同代表。2022年4月より現職。
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企画・制作・編集:IISEソートリーダーシップHub(藤沢久美、鈴木章太郎、榛葉幸哉、石垣亜純)