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「水」でわかる生態系のビッグデータ -環境DNA- 〜ネイチャーポジティブに向けたICTの可能性〜

 IISEでは環境ソートリーダーシップ活動の一環として、ネイチャーポジティブに向けたICTの可能性を本シリーズで考えていきます。
 ネイチャーポジティブに向けた行動を進めるには、最初に自然の状態を知る必要があります。生態系の情報を簡便に調査し、データ化する方法として、環境DNA(Environmental DNA:eDNA)という手法が用いられるようになっています。NECグループの活動も紹介しながら、環境DNAの活用方法について見てみたいと思います。


ひとすくいの水からわかる生態系

 NECグループでは、茨城県霞ケ浦近辺の谷津田[1]をフィールドに、「NEC田んぼ作りプロジェクト」をおこなっています。このプロジェクトでは、認定NPO法人アサザ基金と協働し「100年後にトキの野生復帰」を目指して、耕作放棄地4.33ヘクタールを再生・利用してきました。ICTを活用した様々な実証や共創活動の場としても活用され、環境省「モニタリングサイト1000」に認定されています。例えば、田んぼをフィールドに気象観測センサーシステムを設置し、観測データと生態系・生物多様性との関係性を調査分析しています。NEC ソリューションイノベータでは、この田んぼで環境 DNAによる研究をおこなっています。湿田[2](NEC田んぼ)と周辺の乾田[3]とで、住んでいる生物種の違いを把握する取り組みです。
 現場での環境DNAの調査方法は、水を採取するだけというシンプルなものです。ある調査日では、同社のメンバーなどが2人×2グループで、計15か所の水を採取しました。田んぼの水をカップに採取し、その水を濾過フィルターに通すと、フィルターに生物の痕跡(組織片)が捕捉されます。これを最大10回繰り返して、500mlの水をフィルターに通します。濾過フィルターに保存用試薬を入れて、冷蔵します。これが現場での作業です。濾過フィルターは分析機関に送られ、DNA抽出、PCR [4] の工程を経て、次世代シーケンサー[5]で配列解析を行います。得られた配列を既存のデータベースと照合し、生物の種を特定します。

図 水から生物のDNAを検出するための分析の流れ (各種資料より筆者作成)

 これまでの調査によると、環境DNAによって検出された生物種は、周辺の乾田だと約60種類だったのと比較して、NEC田んぼの湿田では約100種類が検出され、種が豊富であることがわかりました。湿田では、食物連鎖の下位に位置する生物種が豊富なため、それらが支えている全体の生態系が豊かになっており、「NEC田んぼ作りプロジェクト」が地域の生態系の保全に役立っている可能性が示唆されます。

調査地点で水をすくう
すくった水をフィルターでろ過し、DNAを含む組織片を捕捉する

急速に発展する環境DNAの活用

 環境DNAは、水や土壌などから採取される生物由来のDNAのことです。生物の排泄物、皮膚、体毛、粘液などの形で環境中に排出されたDNAが、環境中の水や土壌に含まれています。水や土壌を採取し、そこに含まれるDNAをPCRで増幅・分析することで、そのDNAを持つ生物種を網羅的に特定することができます。さらに、含まれるDNAの濃度によって、そこに存在する生物種の多寡も推測できます。この手法が注目され始めたのは、技術の有用性を示す学術論文が発表された2008年以降のことですが、ここ十数年間で急速に研究や実用化が発展しています。
 これまで、地域の生物多様性の把握は、観察や採集によって、生物種を見つけ出していく方法しかありませんでした。これら従来の手法だと、生物種を特定する高度な専門性が求められ、必要な時間や費用も大きなものとなります。さらに、ある生物種の個体数が少ないほど、その生物種を調査期間中に発見できない可能性が高くなります。環境DNAは、従来型の観察・採集の手法に伴うこれらの課題を補完することができる革新的手法です。
 水や土を採取するだけなので、マニュアルさえ覚えれば調査に高度な専門性が必要なくなります。あらゆる場所で、簡便に生態系の分析をおこなうことができるようになるのです。例えば、神奈川県では、高校の生物部や市民が調査員となって県内の河川の環境DNAを分析するという取組をおこなっています。どの河川でどの種が発見されたかの結果は、インターネット上に公開されています。このような参加型の仕組みができることは、生物多様性に関する市民科学となり、より多くのデータが集まってくるようになります。

環境DNAで広がる生物多様性ビッグデータ

 大学、企業、地域住民が集めた環境DNA観測のデータを共有することで、生物多様性ビッグデータをつくる試みがおこなわれています。東北大学などが主導している日本発の大規模環境DNA観測網「ANEMONE(アネモネ:All Nippon eDNA Monitoring Network)」では、環境DNAによる調査データを公開しています。海や川の水から採取した環境DNAを用い、その水域に生息する魚類に関する調査結果を蓄積する試みです。調査地点は、全国1,000地点以上にのぼります(2022年10月時点)。全国の大学、国立研究所、行政機関などの研究者が調査した地点のデータとともに、市民や企業が調査したデータも保管されています。データは、オープンデータとして自由に利用できる仕組みになっています。科学者だけでなく、教育や意思決定の場でも活用されることが期待されています。NECなども参加している産学連携の団体「ANEMONEコンソーシアム」では、環境DNA技術や生物多様性情報などを利用し、科学的アプローチに基づいたネイチャーポジティブの実現を目指す研究活動をしています。

ICTの活用に期待

 データが蓄積されていくことで、今後はAIなどを活用した分析ができるようになると期待されています。生態系のつながりが解明されていくことで、ICTとの組み合わせも進んでいくと考えられます。例えば、AIにより生態系の状態把握や変化予測が容易にできるようになります。土地改変の計画段階で、生態系データを組み込んだデジタルツインなどを使って影響を予測し、生態系保護につながる計画が立てられるようになります。グリーンインフラの整備においては、インフラの整備前後の生物多様性の変化を確認し、その効果を検証できるようになります。
 データ収集も、さらに効率的になっていくことが想定されます。自動で環境サンプルを回収・分析して定期的にデータを送信するような設置型の自動観測装置などの研究が進められています。実用化されれば、種の分布、資源量の変化、回遊パターンなどの個体群動態、季節性、成長段階などのまとまった情報を遠隔で入手できるようになります。さらに、環境データ(水温や塩分など)と結合したモニタリングにより、環境要因の変化が生態系におよぼす影響もわかるようになり、生態系の複雑なつながりを理解できるようになります。
 AIとリモートセンシングデータとの組み合わせが、環境DNAによる生態系把握の範囲を拡大させることも期待されています。環境DNAのデータとリモートセンシングデータを組み合わせてAIで分析することで、生物種と環境データの間のパターンを特定し、広範囲な生物多様性データを推定できるようになります。また、リモートセンシングデータの活用でリアルタイムに近い頻度で、山火事などの自然災害や違法な採掘・伐採などのリスクの監視ができ、迅速な対応ができるようになります。
 これらの実現のため、複雑性が高い生態系のつながりを捉えるモデルの開発など、自然の状態を把握するための研究が進められています。

<Editor’s Opinion>

 開発に伴う環境破壊や気候変動により、地球の生物圏は危機に瀕しています。地球上の種の絶滅スピードは自然状態の100~1,000倍に達するとされています。IPBES(生物多様性及び生態系サービスに関する政府間科学政策プラットフォーム)の報告書によると、陸上ではすでに、在来種が1900年以降で20%以上も絶滅しています。現在40%以上の両生類、約33%のサンゴや海洋哺乳類、約10%の昆虫が絶滅の危機にあると推定されています。環境DNAの活用により、これまでにない規模で生態系を把握することは、生物多様性保護の大きな一歩になるはずです。
(IISE 藤平慶太)

[1] 谷津田:谷地にある田んぼ。
[2] 湿田:地形的に水がたまりやすい場所に作られた田んぼ。地下水位が高い地域に多く見られ、常に土が湿っている状態となる。
[3] 乾田:水はけが良い土地に作られた田んぼ。水管理がしやすく、人工的な灌漑や排水がおこなわれる。
[4] PCR(ポリメラーゼ連鎖反応):特定のDNA断片を短時間で増幅する技術。遺伝子研究や感染症診断(COVID-19の診断等)など幅広い分野で活用されている。
[5]次世代シーケンサー:DNAやRNAの塩基配列を高速かつ高精度で大量に解析できる技術・装置。

<参考文献>

・一般社団法人環境DNA学会『環境DNA-生態系の真の姿を読み解く―』(2021年、共立出版)
・ANEMONE、ANEMONE HP、https://anemone.bio/
・NatureMetrics、「Harnessing AI for Biodiversity」(2024年)、https://www.naturemetrics.com/news/harnessing-ai-for-biodiversity
・NEC、田んぼづくりプロジェクト、https://jpn.nec.com/community/ja/environment/tanbo.html
・神奈川県、環境DNAのページ、https://www.pref.kanagawa.jp/docs/b4f/suigen/edna.html

<【シリーズ】ネイチャーポジティブに向けたICTの可能性 >
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