「卒論合同」感想⑧ 〜VIII 魂のレヴュー〜
前回に引き続き、感想を綴ります。これまでの記事はこちらから。
8-1. 「魂のレヴュー 毎秒感想」 らいせ(@20161018Wt)氏
読んでいて楽しかった。整理されたツイートを読んでいるようで、その一方で興奮や感情が全面に出ていて、面白かった。
考察の部分はほとんど完全に同意する。付言すれば、皆殺しのレヴューで真矢が敗れなかっことがクロディーヌを「再生産」させ、そのクロディーヌが真矢を「神の器」なる幻想から覚めさせたのであろう。
8-2. 「舞台少女の生まれ変わり ー次の舞台へ進む少女・天堂真矢についてー」 わすれなぐさ(@wsrngs1899)氏
文章が上手い。作中の世界に思わず想いを馳せてしまった。
また、真矢の感情の機微について、あるいは真矢とクロディーヌの関係の「舞台裏」まで想像したことがなかったので、その点も非常に面白かった。真矢の「死」の原因は「神の器」を希求したことであると考えていたが、その原因にクロディーヌの渡仏と「ライバル役」の終焉に求める読みは、(多少真矢クロの関係を重視しすぎではないかという感覚もなくはないが)説得的で興味深かった。作中のキーワードの一つである「ライバル」に関して、また新たな示唆を得られたように思う。
8-3. 「天堂真矢と西條クロディーヌの「レヴュー」における「舞台」 〜『美しき人 或いは其れは』の分析を通して〜」 耶馬野 桜(@yama_no_sakura)氏
私がその方面に明るくないので、引用されている音楽(や映画)に関する考察が行われていて嬉しい。登場人物の、視覚上のモチーフ(アイテム)はさまざまに言及されているが、音楽的なモチーフも存在するというのは、素朴に驚いた。また、それが整合的なしかたで整理されていて面白かった。
『展覧会の絵』に「死」が横たわっているという指摘があったが、もう一つのモチーフである『亡き王女のためのパヴァーヌ』にも「死」が含み込まれているのは興味深い。音楽史や解釈について明るくないので残念ながらこれ以上広げることができないが、ここからさらに発展的な考察が出てくると嬉しい。
8-4. 「魂のレヴューで天堂真矢は何を得たのか? 〜覚悟としてのトマトと西條クロディーヌ〜」 瀬戸大橋(@62245152)氏
本稿は、真矢が得たものを「舞台の上で自分を曝け出すこと」であるとするが、そのことは以下のような示唆を含むと考えられる。すなわち、真矢は「魂のレヴュー」を通して、「舞台の上で弱さを曝け出すこと」「追われ続ける存在ではないと認めること」ができるようになったのであり、それこそが真矢にとっての「覚悟」である、ということである。
これを瀬戸大橋氏は「自らは望んでいないのに外部的要因によって強制された「神の器」の追求をやめる」と解釈するが、私はむしろ、「自発的に「神の器」を追求していたが、それにこだわるのをやめた」と解釈している。
というのも、真矢が「神の器」と呼ぶ鳥の頭を切り落とされる際に「やめろ!!」という叫びは、真に「神の器」への欲求を有していなければ出ないだろうし、TVアニメでも一貫して「追われる側」であり続けることを望んでいたからである。しかしそれが、クロディーヌとのやりとりを通して、(クロディーヌがそうでないように)自分もそうあることはできないしそうある必要もない(そうあるべきでもない)、と感知したことによって、「神の器」を諦めることが、そして一人の「舞台少女」として歩み続けることが、可能になったのではないか。
8-5. 「Werd' ich Augenblick sagen: Verweile doch! Du bist so Schön! 真矢クロ契約書を解読する」 ようしん(@dolowa1871)氏
『ファウスト』も未読で、ユルバン契約書の存在も知らなかったので、知識として面白かった。また、その内容をいれかえたこと=「意味がないこと」に対して意味を見出す論理の組み立ても、説得的だったし興味深かった。
ただその一方で、口約束が重要であったことからは、「意味がある必要がない」ことは言えても、「意味がない必要がある」ことは必ずしも言えない。そのギャップをどう埋めるか(あるいは埋める必要がないのか)に関しては、さらなる考察が可能だろう。
また、「魂を奪われる」というのは、「魂のレヴュー」の文脈において何を意味しているのか、というのも気になった点である。「魂」が、レヴューの最後で真矢から奪われるものだとすれば、それは「追われるものであり続ける自信」や「神の器への憧憬」であるのかもしれない。これは、開始時点で真矢の根幹を担っていた部分、と言う意味で、「魂」の原義とも付合する。それは、「蛇足」の部分にあった、永遠の時間への希求、という点と重なる部分があるのではないか。
8-6. 「ゲーテのファウストと魂のレヴューについて」 タタリモップ(@tatari_moppu)氏
短いながら、さまざまな含蓄があって複数の示唆が得られた。
まず、賭けの内容に関する相違点に関して、「人間ファウストを堕落させること」と「誰も見たことのない煌めきを見せること」は、大きな方向性の上では一致しているが、それに対する評価が異なっていると言えるだろう。両者は共に、「神の絶対性を否定する」ことと結びついており、その点で共通性が見出せる。他方で、「魂のレヴュー」においてそのことは、真矢の「神の器」への幻想を解くことを意味しており、それは劇場版の文脈の上ではポジティブに評価されていると言えるだろう。クロディーヌに見惚れ敗北を喫した真矢が、(勘違いではなく)満足している点からもそれが窺える。
剣を交えることは間接的に誘惑になる、という議論があったが、より直接的にも誘惑になり得ると考えられる。というのは、ようしん氏の記事で指摘されていた通り、「いつまでもいつまでも剣を交えていたくて」という真矢の欲望を引き出す行為であり、そうした欲望を(舞台人としての)真矢が見せることは、「神の器」と同一化する(神としての)真矢の完全性を否定したことになりうる。そしてそれによってこそ、クロディーヌのキラめきを認めることが可能になったのだろう。
8-7. 「真矢クロ握手論」 カズキ(@kazuki030)氏
「手を取る」というモチーフを掬い上げ、それに一貫した説明を与える、非常に面白い記事だった。言及された「握手」のシーンは、それぞれ独立して親密さの描写として捉えていたが、「手を取ることができるようになったからこそ「依存」的な関係になり、「死」を迎えることとなった。そして「魂のレヴュー」を通して「ライバル」として独立しながらも競い合う関係を持つことができるようになった」という一本の筋の通ったシナリオとして描かれていて、興味深かった。
これを読んで最初に思い浮かんだのが、TVアニメ12話の最後の華恋とひかりの描写である。まだ詳しく考えることはできていないが、これも同様の観点から考えてみると面白いかもしれない。
(この記事に関する意見や指摘等があれば、ぜひ筆者(@nebou_June)にお聞かせください。)
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