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「傷だらけの手で、私たちは」感想 〜絵名はいかにして瑞希の心をこじ開け得たのか〜

※私は以下の記事のような立場を取っています。本稿はこの記事に書いてあることを前提にして議論を進めるので、ぜひこちらの記事を読んでから本稿をお読みください。

1.はじめに

「荊棘の道は何処へ」の"解決編"となるイベント「傷だらけの手で、私たちは」。一言で言えば、非常に良かったです。友達として一緒に居続けたいという絵名の気持ちと熱量が、そしてその気持ちに心を開いていく瑞希の姿が、非常に丁寧に描かれていたように思います。それを語るときには、ともすれば絵名の「勢い」や「わがままさ」が前面に出てしまいそうになりますが、実際に絵名のしていることは、非常に繊細で複雑なことであるように感じました。本稿では、絵名の行為のそのような側面に焦点を当てます。

2. 東雲絵名は何をしたのか

2.1. 勉強

この点はストーリーにおいて私が最も驚いた点でもありますが、絵名は、トランスジェンダーについての勉強をしたのではないかと思われます。文化祭の日に瑞希の「秘密」を知ってから、トランスジェンダーとはどのような人たちで、日常生活においてどのような困難を抱えているかについて、勉強したのではないかと考えられます。その最大の根拠となるのが、8話の「あの日から今日まで、瑞希のことたくさん考えたし、私が知らなかったことも知った!!」というセリフです。「私が知らなかったこと」「what I didn't know」「that I didn't know it」という2種類の解釈が考えられますが、いずれにしても、トランスジェンダーであるということに伴って瑞希が経験している様々な困難のことを言っているのだろうと考えられます。それは、「瑞希のことたくさん考えた」という文脈からも想像に難くありません。

そしてもう一つの根拠が、イベント書き下ろし楽曲『余花にみとれて』の歌詞です。この楽曲はおそらく、ほとんどの歌詞が絵名の視点で書かれていますが、その歌詞の中に「瑞希の苦しみは世界が生み出したものである」という前提が織り込まれている箇所がいくつかあります。冒頭の「私たちが思うよりもこの世界は優しくない」や、最後の「壊れたまま進んで行く世界」は、シスジェンダーしか想定していないことでトランスジェンダーに対して様々な困難を作り出す世界のことを歌っているのだと考えられます。この視点は、2番冒頭で「ボクたちが息をする世界はもうとっくに壊れていた」と歌われているように、瑞希にも共有されているものです。そして、サビの「もう傷つける場所のない心臓」「ひどく膿んだ傷」というフレーズも、絵名が瑞希の「痛み」に気づき、それに寄り添っていることを示すものですが、この気づきや寄り添いも、正しい知識なしには不可能であるように思います。

文化祭があってから、瑞希と実際に会うまで、約1ヶ月と少し(現実の時間と近いということはサイドストーリーで示されています)。信頼できるサイトを見たり、本を1,2冊読んだりするには十分な時間です。この期間に絵名は、瑞希の痛みに寄り添うために、そして一緒にいることを諦めないために、知識を得ていたのだろうと推測しています。

(脱線)
正直なところ、このような視点をストーリーの中に少しでも入ってくることを(期待しつつも)想定していなかったので、非常に驚きましたし、とても良いことだと思いました。しかし、このような理解がなされるのに十分な描写だったかというとそうでもないので、より明確に社会的な視座を入れた描き方を期待したいです。

2.2. 「対等である」というメタメッセージ

この点が、本イベントストーリーにおいて最も面白いと感じた点です。絵名は、瑞希に「言いたかったこと」を伝えるなかで、一貫して「私は瑞希と友達として一緒にいたい」「だからこそ、瑞希を傷つけるかもしれない思考をしてしまう」ということを伝え続けています。そしてそのうえで、その伝え方が、「一緒にいる」ために自分はどういう態度をとるか、の表明になっていると考えられます。

瑞希が絵名たちとの関係で最も恐れていることは、「他者」という形で「配慮」されてしまうことそのような気配を自分が読み取ってしまうことでした。この点は、以下の記事のII.に詳しいです。

それに対して絵名は、自分の「わがまま」を全面に押し出すことで、そのような「配慮」をしているわけではないというメタメッセージを発します。瑞希が「配慮」しなければならない存在だから「配慮」しているのではなく、自分がそうしたいからそうしているんだ、と主張します。だからこそ、「なんでわからないの?わかってよ」「それくらい、ちゃんと伝わってよ!」と敢えて対立の形式を取っているのだと考えられます。

このような過程こそまさしく、「合理的配慮=調整(reasonable accomodation)」だと言うことが出来ます。対話を重ねて、双方が納得する対応に落ち着かせるという、まさにそのような実践を絵名は行おうとしています。だからこそ、有無を言わさず「あんたは私と一緒にいるの!」と無理矢理に手を取るのではなく、「自分で決めなさいよ」と瑞希の要望を聞こうとしているのだと考えられます。

2.3. 「再創造」の立脚点の提示

本ストーリーで最も印象的なセリフ「私の想いは何も変わっていない」は、瑞希の心をこじ開けるきっかけとなっていました。それは、2人の間の世界を「再創造」する立脚点を提示したからだと考えています。過去の記事で、三木那由他さんの「カミングアウト」に関する議論を引きながら、以下のように述べました。

本心の「カミングアウト」を受けて、それまでの前提を壊し、文脈を一から作り直していく必要があります。
(中略)
文脈を新たに作り直していく
ことは、すぐにできることではありません。少しづつ、時間をかけて進めていく必要があります。これからの瑞希と絵名の関係が「元通り」になるとすれば、それはそのようなプロセスによってでしかあり得ないでしょう。

https://note.com/nebou_june/n/n37fe1265a179

すなわち、カミングアウトすることは、これまで積み上げてきたものを解体し、もう一度関係を作り直していくことであり、それが「イチかバチか」の賭けのように感じられるためにカミングアウトすることを怖いことだと感じられるが、実際には少しずつ作り直されるものであり、瑞希と絵名の関係もそのような過程を辿るだろう、と述べています。ここで、「積み上げてきたものを解体する」というのは、これまでのものがすべて無に帰すということを意味しません。むしろ、作り直しの作業は、これまでと変わらないもの、最も大事なものを二人で確認しあって、そこから始めていくものだということができます。

そのような発想を踏まえると、「私の想いは何も変わっていない」というのは、まさにその「確認」の作業なのだと考えられます。確かに、絵名が瑞希を認識する仕方は変わりました。シスジェンダーの女性だと想定していたことが事実とは異なっていたことが明らかになったからです。しかし、「瑞希と一緒にいたい」という想い、一緒にいるために唯一必要なその想いは絶対に変わっていないし、だから一緒にいることができるのだと、絵名は主張しているように思えます。

ある意味でそれが全面に出ているのが、『余花にみとれて』の以下の歌詞です。

歩き方を忘れた私たちはどこまで行けるのかな
どこにも行きたくないのならそれでもいいよ
ここで話をしようか
何も話したくないならここから見える景色を見ていよう
何も見たくないのならずっとこのまま
二人目を閉じていようよ
あなたがいればいいよ

https://www.youtube.com/watch?v=agbpbVVA78U

字義通りに取るとしたら「何をするか」、象徴的に読むとしたら「この関係がどんな形になっていくのか、周りの環境がどうなるか」にかかわらず、2人でいたいというその想いだけは変わらない、という意志を読み込むことができます。

このような表明があったからこそ、絵名は、瑞希の心を開くことができたのだと考えています。瑞希はカミングアウトによって「世界がまるっきり変わる」かのように感じていたかもしれないけれど、実際には変わらないものは確かにある。その変わらないものをスタート地点にして文脈を作っていくことができるし、できないとしてもそうしたい、という絵名の強い思いが、瑞希に「一緒にいたい」という素直な気持ちを吐露させたのだと思います。

3. おわりに

本稿では、「わがまま」と「勢い」で瑞希を押し切った、と言及されがちな絵名の行動が、実際には非常に繊細で複雑であることを見ました。その姿はとても誠実でとても温かいものであったと思いますし、類似の状況を生きる現実の人たちにとっても、非常にエンパワリングなものだったのではないかと思っています。

だからこそ私は、過去の記事で述べたような批判を持ち続けています。特に、瑞希のジェンダーアイデンティティを「コンテンツ」として扱うような態度を続ける運営の態度、トランスジェンダーに対して攻撃的になりうるコメントを抑制するどころか助長する運営の態度には批判的であらざるを得ません。瑞希に対して誠実な描き方をしてくれた、瑞希に誠実に向き合う絵名を見せてくれた運営が、現実の「瑞希たち」にも誠実に向き合ってくれることを願って、そしてこれを読んでくれたあなたが絵名のように誠実にあろうとしてくれることを願って、本稿の結びとします。

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