舞台とキリンと大場ななの三位一体――『レヴュースタァライト』論前編
0.はじめに
2018年7月12日放送のアニメ第1話に始まり、2021年6月4日に公開された劇場版(以下『劇ス』)で終幕を迎えたアニメ『少女☆歌劇レヴュースタァライト』。私はそこにキリスト教の教義を読み取った。正確に言えば、再生産総集編『ロンド・ロンド・ロンド』(以下『ロロロ』)までで読解したことを踏まえて『劇ス』を観たことで、それらがキリスト教的モチーフによって統一的に理解された。そのキリスト教の教義とは、三位一体論である。父なる神、子なるキリスト、聖霊の三位格が、それぞれ舞台、大場なな、キリンの三者に対応していると解されたのだ。本稿では、アニメ内(あるいはその周辺コンテンツ)の表象からそれぞれの対応関係の読解を試みる。
なお、『レヴュースタァライト』の世界像はwi(l)d-screen baroqueを境に大きく変わることになるが、本稿はあくまでも変化前(以下「前半」)の世界について論じるものである。
1.舞台≒父なる神――「舞台に生かされている」
まず、舞台と神の対応関係について論じる。舞台が神であること、あるいはより広く、舞台少女たちよりも上位の存在であること。これは多くのファンに受け入れられるであろう。舞台は(少なくとも『ロロロ』までは)舞台少女らの「信仰」の対象であり、また世界を自由自在に操る絶対的な存在である。
信仰対象としての舞台の性質をよく表すのが第一話のレッスン室の描写である。そこでは舞台少女らが「出席番号○○番、(名前)、入ります」と述べてから入る。この行為は、球児たちが試合前に野球場に挨拶するのに、あるいは力士や柔道選手が試合場に礼をしてから入るというのに似ている。これらは、野球や相撲や柔道それ自体を神聖視していればこその行動であろう。とすれば舞台少女たちのこの行動は、舞台という空間が畏敬すべきものであること、舞台少女たちがそう認識していることを物語っている。あるいは、舞台少女各人が舞台に対してあこがれを抱くことそれ自体が、信仰と言って差し支えないであろう。
また、舞台が世界を自由自在に操るさまはアニメを通して常に描かれてきた。オーディションにおいて、「舞台少女のきらめきに応じて舞台装置が動く」というのはまさに舞台の持つ世界の制御可能性を示している。
他にも舞台による時空間の統御が示唆される点がある。その手掛かりとなるのが以下の記事だ。
上の記事は、論理パズル的な試みを通じて、オーディションの星取表を作るのは(視聴者には)不可能だと結論付ける。ここでわざわざ「視聴者には」とつけたのは、「舞台には」可能である可能性を残すためである。星取表の矛盾を前にした我々視聴者は、作品内の整合性を保つため「舞台が何とかしたんだろう」と考える。少なくとも筆者はそう考えた。この「何とかする」ことこそ、舞台の超越性なくしてはできないことである(我々の知っている時間・空間認識の枠組みでは不可能である)。従ってこれもまた、舞台による時空間の統御可能性を支持する事象となりえるのである。
最後に決定的なのは、「舞台に生かされている」という文言である。これはスタァライト九九組のファーストシングル『Star Divine』の歌詞として初登場し、アニメの中でも西條クロディーヌによって発された台詞だ。これはまさに、舞台少女たちの生の根幹を舞台に認めていることの表れであり、これは創造主としての神というキリスト教の思想と符合する。
この議論に付け加える形で、舞台を創る存在としての舞台創造科(我々ファンのことではなく、B組のこと)の絶対性についても触れておきたい。『ロロロ』までの舞台創造科は、現実における舞台を支配する絶対的な存在として描かれる。例えば彼女らは聖翔祭の配役を「上から決める」立場であり、あるいは俳優育成科の生徒たちを「使える」「使えない」と強権的に判断する立場である。また、第100回聖翔祭に向けて悩み、ぶつかり、不安に思う俳優育成科の生徒たちと違って、そのような感情を見せる様子がない。これらの描写からは、舞台に仕える「聖職者」のような舞台創造科の側面が浮かび上がってくる。
2.キリン≒精霊――「オーディションの主催」
前項ではアニメにおける舞台の位置づけや舞台少女たちの舞台との接し方を通じて、父なる神と舞台との類似性をみた。本項では、そのような舞台と舞台少女たちの仲介役となる「キリン」という存在と、三位一体論のもう一つの位格・聖霊の近接性について論じる。その関係に入る前に、まずはキリスト教における精霊の位置づけについて確認しておこう。
『キリスト教大事典』の「聖霊」の項には、以下のように記されている。
すなわちキリスト教における聖霊とは、神と我々人間の間を仲介し、我々人間に生命や信仰心を吹き込む存在である。この認識をもとにアニメおよび『ロロロ』を観てみると、キリンと重なる部分が多くある。
まず、キリンは「オーディションの主催」として舞台少女たちと舞台を仲介する。オーディションの参加者へ連絡を入れるのも、その始まりと終わりを告げるのもキリンである。また自らは言葉を発さない舞台(≒神)の、「舞台少女のきらめきに応じて舞台が勝手に動き出す」などといった仕組みやオーディションのルールを舞台少女たちに伝えるのもキリンである。ここからは、人間の世界と神の世界との間を取り持つ聖霊との類似性が窺える。
キリンはまた、舞台少女たちをオーディションという舞台の上へ上がらせる役割も果たす。例えば愛城華恋には第1話で「朝も一人で起きられない、主役になれなくてもいい、そんな方はお呼びではありません」と言って、飛び入りを決意させる。また神楽ひかりにも運命の舞台を提示してロンドンでのオーディションへの参加を決心させる。そのオーディションに落選しきらめきをほとんど失ったひかりが、華恋との約束の記憶・舞台への渇望・舞台への信仰心を取り戻したのも、大英博物館のキリンの骨格模型の下であった。そして大場ななにも、キリンは影響力を持つ。過去の舞台が眩しいと主張する彼女に対し、運命の舞台として過去の舞台を選ぶことができると示唆しオーディションへの参加を決意させる。
聖霊の働きを広く「生命の息吹を運ぶもの」であるとするならば、「きらめき」の操作もまた聖霊としてのキリンの役割であると言えよう。キリスト教の聖霊は生命の息吹を我々に与えるだけで取り上げることはしないが、キリンはする。オーディションに合格した1人の運命の舞台の燃料とするため、落選した他全員の「舞台少女として一番大切なもの」=「きらめき」を奪う。この操作は、矢印の向きこそ違えど、聖霊と同種の働きをしているのではないか。
しかしここで疑問が生じる。賢明な読者ならお分かりであろうが、キリンは「オーディションの主催にして観客」なのだ。上記の議論でキリンがオーディションの「主催」であるとはどういうことかについては解釈できたが、キリンが「観客」であるとはどういうことかについては解釈できていない。アニメ第12話で「あなたと一緒に」と述べたキリンの「観客性」は何を意味しているのか、実のところ筆者はまだわかっていない。wi(l)d-screen baroque以降の世界像を精緻に読み解いたり、この物語の入れ子の仕組みについて丁寧に整理すれば糸口が見えそうだと直観してはいるが、今のところはこの疑問は脇において先に進もうと思う。
3.大場なな≒キリスト――「なんだか強いお酒を飲んだみたい」
ここまでで、舞台≒父なる神、キリン≒精霊であることを確認した。そしてそれらの議論を踏まえて本項では、残る最後の位格・キリストが大場ななとして立ち現れている、あるいは大場なながキリストになることを指向していることを論じる。
3-1.大場ななの異質性
「大場ななはキリストである」という大きな議論に入る前に、ななが他の舞台少女と比べて異質であるということを確認したい。ここでは、ななのキャラクターとして印象的な超越性や強者性のように、なながより「高次な」存在であることではなく、舞台少女という枠組みからいささか離れているということを確認する。
ななが他の舞台少女の外側にいることが最もわかりやすく描かれているのは『劇ス』前半の星光館のシーンであろう。九九組(除華恋・ひかり)の他の6人が屋内で花柳香子の”わがまま”から始まるいざこざを経験している傍ら、ななは庭(=屋外)で洗濯物を両手に聞いている。このシーンはオーディション(あるいは第100回聖翔祭)を終えて卒業を間近に控えた自らを問い直す重要なシーンであっただけに、なながその輪の外にいたことが印象深いものとなっている。
こうしたななの異質性は、アニメ第1話からすでに描かれている。先述したレッスン室のシーンで、ななは一人だけ「出席番号○○番、(名前)、入ります」を口にしていない。日直以外の生徒として真っ先に「入る」天堂真矢よりも先にレッスン場自体には入っているにも関わらず、実際にレッスン室に入る瞬間には言っていないし、その後次々に生徒たちが「入って」いく声の中にも「出席番号15番、大場なな、入ります」の声は聞こえてこない。挨拶のようなものであり些細なものに感じられるこの違いは、先の議論を踏まえると重大な意味をもつようになる。1で舞台が信仰対象であることを論じる際に、この「儀式」が舞台への「信仰心」の表れであることを述べた。であるとすれば、ななは舞台を神聖視していないことになる。実際、聖翔音楽学園へのななの願書では「みんなで何かを成し遂げたい」という部分が前面に出ており、また聖翔を受けたことも「先生に勧められて」であったことを踏まえると、舞台を神聖視していなくても不思議ではない。これは、舞台に魅せられ主役を追い求める他の舞台少女たちと決定的に異なる点であろう。
3-2.大場ななの超越性/強者性/俯瞰性
ここから徐々にななの「キリスト性」に迫っていく。そこでまず確認したいのが、ななの超越性・強者性・俯瞰性である。
第一に、ななは超越的な存在である。①で傍論として舞台創造科(B組)の絶対性について触れたが、ななもそれに加わっている。脚本・演出に加わって舞台を操ろうとすることは、ななの超越性の証左の一つであろう。また、アニメ第7話の台詞も、彼女が超越的存在であることを示唆している。その台詞は「あの子も私の舞台に欲しくなっちゃいました」。こちらを向いて視聴者に語り掛けるように発されたこの台詞は、舞台が「私のもの」である(=私の支配下にある)こと、「欲しくなった」という感情だけでそれが実現しうることを示唆しており、ななが上位の存在であることを裏付ける。付言しておくと、先の星光館のシーンにおける「みんな、しゃべりすぎだよね」という台詞もまた、彼女が一段上の世界にいることを示していると言えよう。
また、フィジカル面におけるななの強者性も印象深い。オーディションは原則、キリンが言うように「きらめいた」ものが勝つようにできていた。このことは、アニメ第10話での運命のレヴューにおいて、真に2人で1つとなった華恋・ひかりのデュエットが個人技×2で戦った真矢・クロディーヌのデュエットに勝利したことからも明らかであろう。そんなオーディションの中で、ななは無感情で勝ち上がり、何度も何度も運命の舞台(=第99回聖翔祭までの1年間)に立ってきた。そして『劇ス』では、そのオーディションを再現するかのように、皆殺しのレヴューで同時に6人を相手取ってフィジカルだけで圧倒し、「きらめきはどうした 退屈だその程度か 口ほどにもないな」と言い放つ。これらはひとえに「恵まれた体躯」や「素晴らしく伸びる声」を持って生まれたななの強者性を示していると言えよう。
同時に、ななは「舞台全体を見渡せる広い視野」を持つキャラクターとして描かれてもいる。タイツマン氏の指摘する通り、皆殺しのレヴューでは、九九組の各人に対して的確に苦言を呈する。純那には「言葉だけじゃ足りないのわかってる?」、まひると双葉には「ねえ本気出そうよ」というような具合だ。
これは、ななが九九組全員を俯瞰し的確に捉えているからこそできる芸当である。また、各人の心的状態までをも察知し問題点を炙り出すその慧眼からは、ななの超越性を読み取ることもできよう。加えて、ななの教室内の座席も彼女の俯瞰性を象徴する。6人×5列の形に並べられた座席(2年次には1つや2つ欠けがあるが)の中で、ななの座席は真ん中の列の一番後ろ。教室内の全体を見渡すのに最も適した位置だ。こうしてみると、第2話で「大局的な視点から舞台を見ることで自分の役割をより客観的に捉えることができます。」と話す演劇論のシーンでななの座席だけ移されなかったことにも特別な意味を見出さないではいられない。
以上のようなななの超越性/強者性/俯瞰性は、人として生まれながらも神格化されたキリストに通じる部分があるであろう。
3-3.庇護者としての大場なな
大場ななは、「みんなを守る」ために尽力する。悲しみからも別れからも挫折からも、学園を去った成瀬さんと逢坂さんまで含めた「みんな」を守るため、彼女は再演を繰り返す。あるいは、おいしいごはんや(バナナ=なな自身が含まれた)お菓子を同級生たちに分け与える。これらの「隣人愛」の行為は、数々の「奇跡」を起こして人々を救うキリストの姿と、また自らの食糧を飢えた者たちに分け与えて彼らを満たしたキリストの姿と重なりはしないだろうか。
庇護者としてのななの姿は、アニメ第12話にも描かれる。聖翔祭の演目『スタァライト』の新章で、一人昨年の女神の衣装を身にまとったななは、「よくぞ真実にたどり着きました。私たちはずっと、あなたたちを見守ってきました。」と告げる。これはまさしく「見守る者」としてのキリストの姿がななに刻まれている。
3-4.大場ななを取り巻く数字
この項を通じて、大場ななは決定的にキリストに近づく。端的に結論を言えば、大場ななのプロフィールにある数字はすべて「神の数字」なのである。
まず、出席番号の15番。この数字はA組29人のちょうど中心にあたる。
また、これ以外のななのプロフィール(聖翔への願書参照)に出てくる数字はすべて「7」あるいは「12」である。誕生日は7月12日、出身中学は富山市立第七中学校、中学時代に書いた脚本は12本。そして、2008年に始めたバレエと2014年に始めた声楽。最後の二つは一見7や12とは関係ないように見えるが、始めた年齢を考えると調和がとれる。年度始まりに始めたと考えると、バレエは7歳の時に、声楽は12歳の時に始めたことになる。そして、(学年など他の生徒と同じ部分の他には)願書に記された数字はこれが全てである。
これほど執拗にななに付きまとうこの「7」と「12」という数は、いずれもキリスト教において最重要の数である。3が神の世界を象徴する数字であり、4が人間の世界を象徴する数字であるため、それらを足したりかけたりして作られる7や12は、両者の性質を持った完全な数とされているのだ。
大場ななのプロフィールに、キリスト教における完全な数である「7」と「12」が頻繁に登場すること、また(A組の中心を示す15を除けば)それ以外に登場しないことは、彼女がキリストであるという仮説を強く支持するといえるであろう。
3-5.大場ななはキリストになりたかった
前節までの議論で、「大場ななはキリストである」という主張にある程度納得していただけたことであろう。これらを踏まえて第3節の締めくくりとなる本項では、キリスト教のモチーフを参考に「皆殺しのレヴュー」後の大場ななを解釈する。
まず、前髪をかきあげる動作について。このシーンは一見すると意味が解らない。筆者が最初に目にしたとき、衝撃的なほどになながかっこよく映りはするが、何のメタファーかがさっぱりだった。しかし、キリスト教という文脈、あるいは「大場ななはキリストである」というテーゼを踏まえると、驚くほどくっきりとその意味するところが浮かび上がってくる。オーディションにおいてななが前髪を煩わしく思ったことは一度もない。とすれば今回も、前髪をかきあげるのは前髪が邪魔だったからではないはずだ。では何故かきあげたのか。前髪をかきあげることは額を見せること。
大場ななは、額に油を注がれたがっているのだ。額に油を注がれることで、メシアに、皆の救世主に、キリストに、なりたがっているのだ。より丁寧に説明するため、『キリスト教大事典』の「メシア」の項を引用しておこう。
つまりななは、額を見せ、そこに油が注がれることで、「額に油を注がれたもの」=メシア=キリストになりたかった。舞台少女たちにすでに死を迎えたことを伝え、新たなる命を吹き込んで、自らが救世主になりたかった。そのような解釈はできないだろうか。
そして、キリストであることを自覚したななの振る舞いは続く。それが、『劇ス』で最も印象的な台詞の一つ「なんだか強いお酒を飲んだみたい」だ。この台詞を精緻に解釈した考察の一つに、以下のタイツマン氏のnoteがある。このnoteの文脈の追い方はとても丁寧で説得力のある興味深いものなので、ぜひご一読いただきたい。
さて、上のnoteで出た「なんだか強いお酒を飲んだみたい」の結論は、「大場ななは自らの「舞台に立つ理由」の子供らしさを秘匿して酒の飲める大人を演じている。それに対して純那はななが酒が飲める年齢ではないことを指摘したため、首を掻き切られた。」というものであった。この結論には筆者も納得している。ここでは、この結論を本稿の主題に引き付けて再解釈し、この台詞を、ななの「キリストへの指向」の文脈の中に位置づける。
まず、タイツマン氏のいう「大人―子供」の対比は、本稿の「キリスト―人間」という対比の枠組みに当てはめることができる。自律性を持った存在として大人と神を、それに従属的・未熟な存在としての子供と人間を、それぞれパラレルに考えることができる。そうすると先に述べた結論は、「ななは自らの「舞台に立つ理由」の人性を秘匿して”酒の飲める”キリストを演じている。それに対して純那は”ななが酒を飲める年齢でないこと”を指摘したため、首を掻き切られた。」となる。ここで疑問となるのが、「酒が飲める」「ななが酒を飲める年齢でないと指摘する」という部分である。以下では、これをキリスト教の文脈のもと解釈する。
キリスト教で典型的に出てくる酒であるぶどう酒(ワイン)について、『キリスト教シンボル事典』には以下のような記述がある。
また、生贄の儀式について、前掲書の「血」の項には、
とある。すなわち、ななはここで、「生け贄の儀式」を取り仕切る神として振る舞い、そうであるがゆえに「(神の飲み物である)酒を飲んだみたい」とアピールするのだ。では、純那が「ななが酒を飲める年齢でないことを指摘する」はどう再解釈できるか。再解釈のためには、純那の台詞に戻る必要がある。「何言ってるの…?私たち、未成年じゃない。」ここで注目すべきは、未成年であるのがななではなく「私たち」である点だ。神≒大人であるように振る舞うななに対し、自分たちは子供≒人間である。と表明した、と解釈することができる。ななはそう解釈して、生け贄として純那の首を掻き切ったのではないか。そう考えると、「命を捧げることで神の恵みを乞う」という生贄の儀式は、「これまでの自分、死んでしまった自分を燃料として燃やし尽くして、次の舞台へ進む」という『劇ス』の主題ともおおむね符合する。
脱線するが、ここでパラドキシカルなことが起こる。純那のななに対する反応は、エチュードとしては大不正解であった。多くが指摘するようにエチュードとして成立しないからであり、タイツマン氏が指摘するようにななの子供らしさを暴いたからである。しかし、生贄の儀式としては大正解であった。神として振る舞うななとは対照的に、自らが未熟な人間であることを端的に示すことによって、生贄であることを暴露したからだ。この暴露によって神であるななは、あるいは舞台は、遠慮なく純那に血を出させることができたのである。
整理しておこう。まず、大場なながキリストであることを踏まえると、前髪をかきあげる動作は「額に油を注がれたがっている」と解釈でき、メシアへの欲望の表れであることをがわかる。その後の「なんだか強いお酒を飲んだみたい」は、皆殺しのレヴューを生け贄の儀式と捉え、そこにおいて神の役割を担おうとした台詞である。そして純那が「何言ってるの…?私たち、未成年じゃない。」の直後に首を切られたのは、自らが生け贄であることを告白したからであった。これらの二つの事象はいずれも、なながキリストとして描かれているだけではなく、彼女がそれを指向していることを示唆している。
4.舞台ある所にキリンあり、大場ななあり
1~3で、三位一体論における3つの位格:父なる神・子なるキリスト・聖霊がそれぞれ舞台・大場なな・キリンに対応していることを見てきた。本節では、これらが一体であることを述べる。
スタァライトの世界において、舞台のある場所にはキリンがいて、大場なながいる。『ロロロ』の新規カットにおいて、それが明示された。オーディションにが終わるたびに、ななは舞台上でレヴュー曲の歌詞を朗読し、キリンはそのそばにいる。ここから、ななとキリンがオーディションを観ていることが、すなわち舞台の傍らにいることが示唆される。
また、舞台とキリンとななが同時にいるのはオーディションにおいてだけではない。アニメ第12話、第100回聖翔祭の『スタァライト』においては、新章におけるななの登場シーンでキリンが首をもたげる。我々が知る限りにおいて、『スタァライト』の脚本の中にキリンは登場せず、したがってキリンが出てくる必然性もない。にもかかわらずあの場面で登場するのは、やはりキリンが「舞台」自体と分かちがたく結びついているからであろう。そして、キリンの裏でななの台詞が発されることで、キリンとななの結びつきが示唆される。あるいは、キリンの台詞をななが発しているとまで言っても良いかもしれない。いずれにせよ、舞台・キリン・大場ななは、三位一体のような関係にあるといえる。
5.前半にも、転換の萌芽
ここまで、舞台は神、キリンは聖霊、ななはキリストということを論じてきたが、実際にはそう単純に断言できるわけではない。そう描かれているだけで、実際には違うのだ、という糸口が、前半にも垣間見える。これまでの議論をあえて大げさに否定することによって、後半への転換の展望を示したいと思う。
まず、舞台は神なんかではない。1ではレッスン室が舞台であることを当たり前のように扱った。演技をするからあまり違和感はないかもしれないが、そこは純然たる「舞台」ではない。舞台か舞台でないか、微妙な例をさらにいくつかあげよう。第10話では、東京タワーのお土産売り場で華恋とひかりが『スタァライト』のエチュードをして観客を集める。第6話では、幼少期の香子が河原で演舞のようなことをしている。第7話では、華恋がベンチの上が舞台だと言い張る。後ろにいけばいくほど「舞台らしくなさ」は上がるが、どこで線引きができるだろうか。我々が「舞台である」と認めたところはすべて舞台なのではないか。
そうして、後半の「舞台とは、世界のあらゆる場所である」という結論が準備される。あるいは最初から、「世界は私たちの大きな舞台だから」と「舞台少女たち」は心得ていたのかもしれない。
また、キリンは聖霊ではない。我々と同じ観客である。そのまなざしを燃料に舞台少女たちをきらめかせるような、観客である。『劇ス』冒頭での「間に合わない」と走るキリンは、そうした純粋な観客性のようなものをよく表している。「あなたと一緒に」というキリンの観客性は、大げさにこの可能性を見せているのかもしれない。
そして最後に、大場ななはキリストではない。我々と同じ、1人の舞台少女である。これは、3-5で引用した「「子供っぽさ」の秘匿」あるいは再解釈した「人性の秘匿」という部分に示唆されている。そしてこれは、タイツマン氏が指摘するようにアニメ第9話の純那の台詞で既に表されてきたことである。
6.おわりに
本稿ではまず、舞台・キリン・大場ななに三位一体のような関係を見出してキリスト教との対応関係を論じ、それらを踏まえて皆殺しのレヴュー後のななの挙動を解釈した。そしてその後、後半への変化の展望の一部を述べた。
大場ななを中心に据えた考察は多々あれど、三位一体論やキリスト教を通した考察は、筆者の独創性は発揮されたことだろう。スタァライト批評にに新たな視点を持ち込めたなら幸いである。
以上で明らかなとおり、『レヴュースタァライト』の解釈はまだ終わっていない。本稿から発展させる形で、あるいは脇に逸れる形で、この豊かな物語の世界から可能な限りのメッセージを受け取っていきたい。『レヴュースタァライト』は、折り目を付けた台本であるが、新しいことに富んでいて、台詞という名のメッセージも未だ馴染んでいないのだ。
(追記)本稿は、筆者の思い込みによって書かれた箇所がある可能性があります。また、準備期間が短かったゆえに議論が曖昧な箇所があります。釈然としない部分や疑問に思った部分、あるいは興味深かった部分などあれば、筆者(@nebou_June)に忌憚ない感想をお聞かせください。
<参考文献>
・日本基督教協議会文書事業部・キリスト教大事典編集委員会企画・編集『キリスト教大事典』(改訂新版)、教文館、1968年。
・ミシェル・フイエ著、武藤剛史訳『キリスト教シンボル事典』白水社、2006年。
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