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「卒論合同」感想⑨ 〜IX 最後のセリフ〜

期間が空いてしまいましたが、前回に引き続き、感想を綴ります。これまでの記事はこちらから。

9-1. 「愛城華恋にとっての舞台とは何か?」 かとー(@Bigtop18)氏

華恋がいかに「再生産されるか」を考える際に重要なところがまとめられていて良かった。本稿は、「最後のセリフ」における華恋の「死」(やそれに対するひかりの反応)が演技であると指摘するが、この指摘は全く妥当であると考えるし、それが「私"も"ひかりに負けたくない」というセリフに繋がるという視点は新たなものだった。一方で、華恋の剣が折れることを「可能性の収束」と考えるのは少しナイーブすぎるかもしれない(9-7で詳述)。かとー氏は「今回、神楽ひかりというフローラによって華恋は呪縛から解き放たれて星摘みの塔から降りて、一人のまっさらな少女として生まれ変わって新たな歩みを進むことが出来たのだと思う。」と結ぶが、こうした発想を踏まえれば、華恋の剣が折れることはむしろ、「可能性の収束」ではなくむしろ、「可能性の広がり」と言えるのではないか。

(注1の部分に関しては、以下の記事が詳しく論じている。)


9-2. 「私の再生讃美論からあなたの再生讃美論へ」 しろちゃん(@Usoyade_Minna)氏

本稿は、劇場版における主だったテーマの裏に見られる「毒」を示す。「舞台少女は舞台から逃れることはできない」など私の読み方と異なる部分はあるが、舞台少女の抱える「危うさ」について考えるという点は注目するべきだろう。エンパワリングで煌びやかなメインテーマと、「毒」や「危うさ」との間の緊張関係がどのように描かれ、どのように結論づけられているかもまた、『劇場版』読解の重要な点となると考える。


9-3. 「華恋再生産における鉄道高速化事業 ~鉄道趣味者的視点から見るスタァライト~」 茶野 貫之(@chanots)氏

技術的な部分に関する細かい描写の相違に、「再生産」に関わる描写を読み取る、非常に示唆的な文章であった。特に、暗闇の地下鉄における「皆殺しのレヴュー」から、ラストシーンでは高架駅に辿り着くという流れは興味深く感じた。「落下」のモチーフや「塔」に関する議論も含めた「高低」に関する議論と合わせて考えても面白いかもしれない。包括的な議論が待たれる。


9-4. 「依存症回復プログラムから考える劇場版スタァライト ――「アタシ再生産」とは何だったのか」 morgenrot(@a54thw)氏

劇場版において華恋が行った「アタシ再生産」という抽象的なプロセスを、現実における具体的な実践を踏まえて解釈していた。そこで「とらえなおし」や「棚卸し」を補助線とするのは説得的であるように感じられる。本稿の議論を踏まえて省みると、我々も明示的な手続きを踏まないだけで、日々「とらえなおし」や「棚卸し」を、従って「再生産」を行っていると考えられる。自分の過去を意味づける作業は、日常生活のあらゆる場面で行われているだろう。だからこそ、それを重要なものとして(再)確認する『劇場版』が、多くの人の心に響いたのではないだろうか。


9-5. 「レヴューに使われるエネルギーを高校力学で導出してみよう! ~最後のセリフ~」 ノーラ(@noradhi_nu)氏

具体的な数字がわかれば、「東京タワーの上半分が地面につき刺さる」と言うのがどれくらいやばいことなのかについてイメージが湧くかもしれないと思いながら読み進めていたが、数字が大きすぎてイメージが全く湧かなかった。当該のシーンについては刊行後にモデルとなった地点が判明したので、それを元に計算し直してより正確な結果を得ることもできるかもしれない。


9-6. 「なぜ思春期の可能性は折れなければならないのか? 〜再生産のレヴューについて〜」 タモスケ(@NewName_NoIdea)氏

華恋の剣が折れた原因についての、ひかりと「一緒にスタァライトする」ことひ目標をおいていたところから、ひかりに依存するのとは異なる仕方で自らの立ち位置を再確認した、という整理は非常に同意するし、このことを最後に映る剣や『ロンド・ロンド・ロンド』のパンフレットに示された願書と絡めて論じる切り口は興味深かった。
一方で、もう少し強い解釈も可能かもしれない。すなわち、ただ一人だけの「トップスタァ」という存在に向かって戦い、「奪い合う」という(TV版の)構造自体に対する否定という含意があったのかもしれない。「再生産」を通してそのような図式を捨て去ったからこそ、「私も、ひかりに負けたくない」という「最後のセリフ」が、「トップスタァを奪い合う敵」ではなく「ともに高めあうライバル」のセリフとして響くのではないだろうか。


9-7. 「可能性の収束/最後のセリフ読解」 ハマーフリーク(@Kei_N_ykhm)氏

本稿は、「最後のセリフ」の読解を通じて、華恋の剣が折れた理由について考察する。本稿の整理するところによると、「最後のセリフ」において華恋は全能の神から人間へと押し下げられ、そのこと(「スパダリ属性の喪失」)と「決定的な可能性の分岐」の収束によって、華恋の剣が折れたという。この議論も一定程度の妥当性は認められるものの、別の(真逆の)読解の方向性を提示してみたい。

すなわち、可能性の収束に伴って折れたのではなくむしろ、可能性の収束の拒絶によって折れた、という読みである。本稿の結論の根拠の一部は、「思春期の可能性」という武器の名称に由来している。

華恋のレヴュー武器には知る人ぞ知る“Possibility of Puberty”という名前(*2)が存在する。直訳すると「思春期の可能性」。九九組に限らず、人生で最も可能性が開けているといっても過言ではないのが高校時代である。望めば何者にでもなれる、そんな思春期の象徴が、華恋が持つあの剣なのだ。

ここにおいて、我々の持つ「思春期」のイメージと華恋にとっての「思春期」の位置付けがシームレスに接続されているが、両者はむしろ真逆なものであると考えられる。このことは、TV版において「普通の女の子の楽しみ」が棄却されていることからも明らかであろう。確かに「思春期」に仮託されたものは「望めば何者にもなれる」であった。しかし華恋にとってそれが持つ意味は、「どんな存在にだってなれる」という我々のイメージとは真逆の、「ひかりちゃんとふたりでスタァになることだってできる」というたった一つの最終目標であった。つまり、華恋の「思春期の可能性」は彼女が武器を手に取った瞬間にすでに「収束」しているのだ。

それあるとすれば、華恋の剣が折れることは、むしろ「ひかりちゃんとふたりでスタァになる」以外の、さまざまな可能性がひらけてくるということではないだろうか。こうした解釈は、9-6で述べた「奪い合い」の否定とも共鳴するところがあるだろう。


9-8. 「ニーチェ的視点から読み解く『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』ー舞台少女はかく演ぜりー」 かがみ(@mirror_bananice)氏

ニーチェの『ツァラツストラ』の議論を踏まえて、「超人」への成熟の過程を『劇場版』に見出す、刺激的な議論であった。特に、作中における複数のレヴューを一連のものとして捉える読みは、各「カップリング」を華恋-ひかり関係の反復として捉える議論とも相性が良く、ここからさらに議論を展開していけそうな気がした。

また、「作中世界と現実世界の永劫回帰」という視点も面白かった。(少なくとも三次元に生きる我々の視点においては)アニメーション内の二次元の世界はあくまで二次的な存在であって現実世界との「円環」は更生し得ないのではないかという感覚もあるが、「舞台とアニメの両輪による展開」以上の意味を「二層展開式」に見出す議論にとって大きな足掛かりとなるように思う。


9-9. 「“Super Star Spectacle” as Bildungsroman」 雨野原(@lainfield)氏

アメリカ文学『THE LONG GOODBYE』と『劇場版』を並行的に捉え、『劇場版』におけるWSBを「通過儀礼」として捉えており、勉強になった。

本稿は、「愛城華恋の空虚さそのものが、愛城華恋を"WSB”の象徴に指名した」と指摘し、華恋の「空虚さ」を(バルトの論じる)塔の空虚さと並置する。バルトがいかなる意味において塔を「空虚」であると言ったかは本稿の引用部分だけでは理解しかねるが、華恋の「空虚」にはふたつの種類があると考えられることに注意が必要だろう。すなわち、TV版における「バックグラウンドが見えない」ような(まさに「心が見え」ないような)「空虚さ」と、『劇場版』のラストシーンにおける、自らを再解釈し再生産したことによって、自らのよって立つ場所がなくなりしがらみが解けた「空虚さ」である。前者は魂のレヴューにおける「神の器」的な不可能な欲望ともつながる一方、後者は「再生産」ののちの晴れやかな展望を喚起する。これらの「空虚さ」の内実を、あるいはバルトの議論における「空虚さ」の内実を問うことで、さらなる議論ができるかもしれない。


9-10. 「私に語りかけ、手を差し伸べる「あなた」がいるところ —「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」にみる、自己イメージの死と再生—」 新中野(@shinnakanodayo)氏

コミュニケーション場面において想定される自己や他者の「イメージ」を切り口に、他者の前に立ち現れる自己のイメージが更新されることを「再生産」として論じる、非常に興味深い論考であった。特に、イメージとの乖離から逃避するための「祈りとしての自分ルール(「見ない・聞かない・調べない」)」というのは、華恋の論理に非常に沿ったものであるように感じられ、面白かった。
また、華恋の(自己イメージの)「死」が、華恋に語りかけるひかりのイメージの死によってもたらされた、と論じられており、もちろんそのような側面が大きいが、付言するならば、「観客」からの眼差しも華恋の自己イメージの死に寄与しているだろう。自らはひたすら「演じる」主体であると考えていたところに、自らを観る存在が立ち現れたとことで、自己の「客体」としての側面が知覚され、自己イメージの死に至ったという側面もあるのではないか。


9-11. 「スタァライトの誕生 〜哲学・神話学から読み解く劇ス〜」 漁夫(@FishermanMac25)氏

ニーチェの『悲劇の誕生』を踏まえて、戯曲『スタァライト』の要素をアポロン的な衝動とデュオニソス的な衝動の両極から分解した上で、両者を「塔」的な罪と「星」的な罪に対応づけ、まさにその塔と星をこそ糧として「罪の克服と再帰」が行われたと指摘する、非常に面白い論考であった。
その一方で、こうした発想が「二項対立」に基づいており、劇場版ではそれが批判されていたのではないかという議論を拙稿でしている。(詳しくは以下)

本稿と拙稿の議論の関係をどのように考えればいいかについてはよくわかっていない。両立不可能なものなのか、あるいはむしろ相補っているものなのかについては、考える余地が残されているように思う。


9-12. 「レヴュースタァライトの夜明け」 円 あすか(@maru_aska)氏

第四の壁の向こうにいる華恋にとっての「もう一人のアタシ」というのは、考えてもみなかった面白い発想であった。「過去を燃やし尽くす」という作中での「再生産」の描写と、9-10で触れた「観客の眼差しによる死」という考え方を踏まえると、そのような発想もあり得なくはないように感じた。

それは、何者かになりたくて舞台少女を演じてきた華恋を見守っていた、もう一人の「舞台少女ではない華恋」である。本当に好きなものが見つかる前の華恋。心のどこかで不安を抱えている華恋。友達との時間を失わなくていい華恋。普通の楽しみ、喜びを享受できるはずだった華恋が、舞台少女 愛城華恋をずっと見守っていたのだ。

本稿では以上のように記述されている「もう一人のアタシ」であるが、私は舞台を降りる華恋がいたっていいと考えている。劇作家でも、教育者でも、それこそアニメに携わってもいいと思う。「友達との時間」を楽しんでいたっていいと思う。華恋自身が「やらねばならないこと」を見つけた先であれば、どこに居たっていいし、むしろそのような地平を見せてくれるような作品なのではないだろうか。


9-13. 「『私たちはもう舞台の上』楽曲分析」 遺失物届(@arudanshi)氏

音楽的な議論は全くと言っていいほどわからないので、このようなまとめをしてくれるのは大変ありがたいし参考になると感じた。かろうじてコメントできる歌詞の部分についてコメントすると、アウトロの部分のコーラスについて、その周期が異なっているのが非常に印象的であった。それは、本稿の「3つの複雑な響きにより、彼女たちの声が溢れ、希望に満ちて収束していく終わり方を演出している。この聴きやすいミックスのバランスや、歌詞の重ね合わせも刮目すべき箇所である。」という指摘と重なるところであろう。

その他の歌詞については、以下の記事で少し触れている。


(この記事に関する意見や指摘等があれば、ぜひ筆者(@nebou_June)にお聞かせください。)

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