3月2日:なんとなく生きるのも悪くない
最近の原動力。
「なんとなく生きたくない」
定義。
それはまた曖昧なものである。
ここで一概に、簡単に僕の思うがままに定義を決めてしまえば、世の中に失礼の極まりない見事な言葉が聞ける。
「とはいえ」と言うやつだ。この際は。偏見まみれ。
サラリーマンのように、なんとなく生きるために金を稼ぐ日々は嫌に思う。なんとなく人間に備わっている生存本能や、子孫を残そうとする本能が暗に機能し生きる。平日の仕事ではしたくないことをしたり、週末の休みがあったとしても、ネトフリで映画を見たり、YouTubeを見たり、それくらいの日々の娯楽。人間とはそういうものである。
そういった機能は備え付けだ。
僕の言う「なんとなくの生き方」は簡単だと思う。程々の努力で大学を卒業、程々に就活をして中小企業に入社。丸ノ内線沿いに本社があり、総武線の支社に通う日々。僕は可能だと思う。
でも、そんな生き方は嫌だ。
友達に「 将来何になるの?」と聞けば「サラリーマン」と答えた。
サラリーマンだったとしても日々の中に機微の快楽を見つけて、拠り所のように縋りつくして生きるのだろうと思う。
死んだように生きているのか。
生きているように死んでいるのか。
少しでも刺激的な日々でありたい。
同じことの繰り返しの日々を送りながら、「俺は何してるんだ..」と感じながらも生きるために、軽率に面舵を切れなくなる顛末。「何してるんだ」の日々の繰り返しになり、どうにもできない現状で死んだように生きていたくない。
でも、その社会の現状に放り出されたとされても僕はそれでも生きていける。
だからこそ、嫌だ。
こんなことをこれまでの世の大学生は幾度と語っている。そんなヤツらはこの先に痛い目を見るか、死んだ顔をして朝の電車に詰められているかのどちらか。
明日はどちらか。
そう思い寝る。
おやす