アダルトチルドレンはいかにして作られるか~幼少期の記憶をたどる

私はアダルトチルドレン・・・なのだろうと思う。親ガチャ大外れでひどい目に遭った、と思っている。情緒がおかしい気がするし、自尊感情もない。いまだに母の日、父の日が近づくと虫唾が走る。小学生の頃、学校で母の日に必ず書かされた「お母さん、ありがとう」の作文ノルマが何しろ最悪だった。通信簿で国語の評価を良くするためには、教師が望んでいる子供らしい文章を書かなければならないから、母の日が近づくと、図書館で作文コンクール選集などを読み、必死に他所の家庭の模範的な母子関係を学んで、アレンジして原稿用紙を埋めた。その度に心が腐っていくようだった。

子どもの頃、安心して健やかに暮らすことができていれば、また違う人生もあったろうと思うが、人生に「もし」は無い。将来、脳内の辛い記憶を都合よく消去できる装置が開発されたなら、真っ先に治験に参加したいくらいだ。あの頃の記憶はいらない。というか、両親と過ごした記憶はすべて消去したい。

幼いころ毎日、母に、お前がいるから生活が苦しい、生まなきゃよかった、と怒鳴られていた。保育園の年長の頃には妹が2人生まれていたが、母はなぜか私だけに罵声を浴びせるのだった。今にして思えば、駆け落ちデキ婚して、知り合いが誰もいない街に移り住み暮らす不安を、先に生まれて言葉を理解する私にぶつけて憂さ晴らししていたとしか思えない。

一方、父は当時、ソーカ学会にドはまりして、私に毎日、朝晩の勤行をするよう、強要した。勤行とは、仏壇の前に正座して、手に数珠をかけ、経文を音読することである。経文の読み方を間違えたり、数珠の持ち方が悪いと言っては殴る蹴るの暴行を加えられる恐怖の時間。

4歳から5歳にかけては、すぐ下の妹とセットで児童養護施設に入ったこともある。出たり入ったりで通算1年ほどそこにいたかもしれない。私にとってはオアシスのようなところだった。家には無かった絵本やおもちゃがたくさんあって、怒鳴ったり暴力をふるう人がいなかったからだ。

妹の方は、寂しがっていつもめそめそしていたので、毎日なだめすかすのに苦労した。施設に預けられて数週間経った頃、両親が揃って現れた時は、げ!もう迎えにきやがったか?と焦りつつ青ざめたが、妹は嬉しそうにキャッキャとはしゃいでいた。その時、両親は迎えに来たのではなく、自分たちが寂しいもんだから束の間、子供たちの様子を見るついでに面会に来ただけだった。野良猫に餌を与えて、ひとときの触れ合いを楽しみ、また来るから元気でね、と、ホームレスのまま捨て置くのに似ている。

「よかった、元気そう。この次はお家に帰れるからね、もう少しここにいてちょうだいね」帰らなくていいんだ!私は嬉しさのあまり顔がにやけたが、妹はみるみる泣き顔になって、ママ、ママ、とギャン泣きし始めた。

めんどくせえな、と思いながらも懸命に妹をなだめすかしたが、その後がさらにめんどくさかった。両親が面会に来て去っていくまでを、施設の子供たちが遠巻きに見ていたのだ。児童養護施設には色んな事情で親のいない子供たちが暮らしている。私より少し年上の、6,7歳くらいの男児が近寄ってきて、私の肩をどついた。「お前たち、なんで両親いるのに、ここにいるんだよ。出ていけよ!」

知るかバカヤロウ、である。同時に、自分の両親のデリカシーの無さに憤った。連れて帰るわけでもないのに雁首揃えて他の孤児の前で自分の子供と戯れてんじゃねえ、妬まれて当然だろうが。4歳の子供でもそのぐらいのことには気が付く。大人になると子供を侮るようになるので、4歳がそこまで考えるのか、と訝しく思うかもしれないが、例えば、父親に性的虐待を受けていた3歳の女児が、父親以外の男性にも媚びるようなしぐさをする、という話を聞いたことがある。父親を通じて、3歳ながら女性として男性との接遇の仕方を学んだわけである。子供だからまだ分からないだろう、と油断してはならない。

私は2歳の頃から記憶がある。なぜかと考えてみたら、年子で妹が生まれたために、育児ワンオペの母が私の面倒を見る回数が減って、泣いても構ってもらえなかったりしたせいだろう、と推測する。

幼児期の記憶は、身の危険や不安を感じた時に初めて発生する、という。小学校あがる前のことはよく覚えてないなあ、という人に時々出会うが、きっと優しい大人に囲まれて愛を感じながら育ったに違いない。

保育園児の頃、既に生活に疲れていた。保母さんの中に、とても優しくて綺麗な人がいたので、その人の養子にしてもらえないかと夢想したこともあったが、6歳の子供には何の決定権も選択肢も無かった。

母に毎日死ね死ね言われているうちに本当に死にたくなって、首つりにトライしたのも、このころだ。7歳までに3回、自殺未遂を繰り返して、3回目は意識を失いかけたがすぐに蘇生してしまい、失敗に終わった。6歳では、手がきかなくて、うまく首が締まるように縄跳びの縄を結べないから仕方ない。時期がもうちょっと遅くて小学校高学年ぐらいならきっと成功していたかもしれない。

親が子供を守らず、暴力によって恐怖と苦痛を与える機能不全家庭に育ったせいで、家族はリスク、と思うようになった。小学校に上がるとクラスでも虐められ、自分以外は全部、敵と思うようになり、自殺マニアが一転してオマエラゼンインブッコロス心境へと変化。あるとき、男子にからかわれたのをきっかけに、教室で椅子なぎ倒し、机を蹴飛ばして暴れて見せたら、翌日から虐めが止まった。こんなにあっさり平和になるんだったら、もっと早くヤバいやつ認定されてればよかった、と、ちょっと思った。平和、と言っても単に誰も寄り付かなくなっただけではあるが、家で5人のガキの世話をしながら両親に殴られていた私には、学校で孤立しているぐらいでちょうどよかった。

当然ながら、いまもひとり暮らしである。家庭内暴力が嫌ならひとりでいるのが正解だ。他の妹弟は皆、結婚してそれぞれの家庭を持っているが、私は人付き合いなどバーチャル、リモートで充分である。SNSで正体不明の人物と交流もどきの言葉を交わし、しばし友達のふりをして過ごすのも一興だ。人付き合いは、そのうちVR空間のみで事足りるようになっていくだろう。記憶の部分消去や上書きができる機械、早くできないかな。いらない記憶の書き換え、希望。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?