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不安の正当性 ~新型コロナ、そして原発事故

1、不安を感じることは「悪い」ことではない

私たちは普段、様々な不安を抱えながら生活しています。
周囲を見回してみると、不安材料は山積み……。新型コロナウイルスをはじめ、私たちがいま生きているこの社会には不安を引き起こす要因がたくさんありますね。
不安にいかに対処してゆくかは、現代を生きる私たちにとって切実な課題です。

ただ、まずはじめに確認しておきたいのは、不安自体は否定するべきものではないことです。不安を感じることは「悪い」ことではありません。むしろ後で詳しく述べますように、不安は私たちが生きてゆく上でとても大切な役割を果たしているものです。

本日の投稿では、「不安の正当性」という観点から、新型コロナと原発事故についての私なりの考えを述べてみたいと思います。


2、不安への対処の仕方

皆さんは心に不安を感じるとき、どのように対処をされるでしょうか……? 不安への対処の仕方については、大きく、二つの方法があると思います。

一つ目は、自分の心持ちを変えること。自分の心に目を向け、不安を引き起こしている内的要因に対処する方法です。「気の持ちよう」ことで不安が軽減されることは、私たちが日々経験していることです。美味しいものを食べたり、趣味に没頭したり、運動をしたり、友人とおしゃべりしたり……。場合によってはカウンセリングを受けると効果的なこともあるでしょう。また、自分自身の認識を変えることによって不安が軽減されることもあります。

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(ちなみに私は猫の体に顔をうずめてリラックスをしています♪)

一方で、自分の気の持ちようや認識を変えるだけでは解決されない問題もあります。不安は私たちの「心の問題」によって生じているだけのものではないからです。
不安に対処するもう一つ方法。それは、その不安を引き起こしている外的要因に対処することです。外的な要因が解決されることによって初めて不安が解消されるケースもあるでしょう。

不安への対処の仕方
①不安を引き起こしている内的要因に対処する(=自分の心持ち・認識を変える)
②不安を引き起こしている外的要因に対処する

たとえば、この度の新型コロナウイルスについてはどうでしょうか……?

「自分の心持ちを変えること」ももちろん、必要なことですね。自粛生活が長引く中、こまめに気分転換をしつつ、なるべく自分の内に不安やストレスをため込まないでおくことは大切です。
と同時に、この問題に関しては私たちに不安を引き起こしている外的要因が解決されることが重要なことですよね。私たちがどれほど自分の心持ちを変えようと、外的な要因=ウイルスの感染拡大が収束へと向かわない限り、私たちの内から完全に不安がなくなることはありません。


3、未知のもの・不確実なものと出会ったとき、私たちは不安を感じる

不安がどういう状況で生じるか――。このことを考えてみますと、未知のもの・不確実なものと出会ったとき、私たちは何かしらの不安を感じることが多いのではないかと思います。未知なる何か・不確実な何かに遭遇したとき、私たちの心の内に反射的に生じるのが不安なのではないでしょうか。

私たちが「先のこと」に不安を覚えるのも、未来そのものが、どうなるか分からない不確定な要素に満ちているからだと言えます(まだ見ぬ未知のものに不安を感じるのは私たち人間ならではのことですね)。

新型コロナが私たちの社会に強い不安をもたらしたのも、それが未知のウイルスであったことが大きいでしょう。感染拡大から1年以上が経って、この新たなウイルスについても、かなりのことが分かってきています。一方で、ウイルスがもたらす症状とその後遺症について、いまだ分かっていない部分もあります。変異ウイルスの感染力や健康への影響などについても同様です。

不確実な要素があるということで言えば、現在供給が急がれているワクチンもそうでしょう。ワクチンの効力、副反応については不確実な要素もあり、接種の可否を含めて人によって受け止め方・考え方に相違があります。人によっては、ワクチンの接種に強い不安を感じていらっしゃることでしょう。


4、不安が果たす大切な役割 

ここで、改めて確認しておきたいのは、不安を感じること自体は「悪い」ことではないことです。むしろ、不安は私たちが生きてゆく上でとても大切な役割を果たしてくれているものです。

科学ライターの伊藤浩志氏は《不安とは、生物が進化の過程で獲得した生存の危機に対する警報装置》であると述べています(伊藤氏の専門は脳神経科学)。
火災報知器が万一の火災に備えてわずかな異変をも察知するよう設計されているように、私たち生物においても、リスクに対して敏感に反応するようにプログラムされているのだ、と(『復興ストレス 失われゆく被災の言葉』、2017年、彩流社、38頁)。
ちなみに、この警報装置としての機能を果たしているのは、脳の偏桃体という部位です。

伊藤氏は、偏桃体研究第一人者のルドーの次の言説を紹介しています。

私たちが野道を歩いていて、曲がりくねった物体に遭遇したとする。「ヘビだ!」と思って飛び退いて、実はそれが曲がりくねった小枝だとしたら、臆病者と笑われるかもしれない。しかし、ヘビを小枝と早合点して噛まれて死ぬより、たとえ取り越し苦労であっても、最悪の事態(=蛇に噛まれて死ぬこと)を想定して「素早く動く」方が、生存にとっては有利である。

緊急時には、最悪の事態を想定しておけばいい。取り越し苦労なら、後からいくらでも取り返すことができる。何ごとも、命あっての物種だ。長い眼で見れば、ヘビを小枝と間違えるより、小枝をヘビと間違えるほうが生存に有利になる(伊藤浩志『復興ストレス』、39頁)。

またそして、不確実性の高い状況下では、情動に基づく判断は、理性的な判断よりも高い合理性を発揮する可能性があることを伊藤氏は述べています。
これらのことから、不確実性の高い課題については「とっさの素早い反応」が重要となる場合があることが分かります。

不確実性の高い課題に取り組む場合、科学的な証明を待つより先に、予防的に素早く対応することが重要なこともあるのですね。



5、原発事故と放射能問題

伊藤浩志氏は上記のことを述べているのは、原発事故と放射能問題の文脈においてです。原発事故と放射能問題はまさに、不確実性の高い課題の最たるものの一つであると言えるでしょう。

伊藤氏はその著書『復興ストレス 失われゆく被災の言葉』において、放射能に対して不安を感じることの正当性を、最近の脳神経科学の成果も交えながら論述しています。

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(本稿はこの伊藤氏の著作に負うところが大きいです。放射能問題を考えるにあたり、おすすめの一冊です)

この3月、私たちは東日本大震災と原発事故から10年を迎えました。

原発事故から10年を迎えた現在、私たちは改めて、放射能に対する不安を正当に位置づけし直し、評価し直すことが求められているのではないでしょうか。放射能という未知の脅威に対して強い不安を覚えることは、極めてまっとうな感覚であるのであり、そしてその不安が、私たちの社会全体に重大なメッセージを発信してくれていると考えるからです。

……

少し私自身のことを書きますと、10年前の震災が起きた当時、私は東京で生活をしていました。津波による被害を受けたわけではなく、原発事故による避難を経験したわけでもありません。ですので、被災した方々のその大変なご苦労を想像することしかできません。この10年、原発事故で被災された方々のお話を伺ったり、様々な証言や本を読む中で、少しずつ自分なりに理解を深めきました。いまも学んでいる途上です。

(震災と原発事故から10年を迎えた私なりの所感を以下の記事に書いています。宜しければご参照ください)

6、不確実性の高い問題に対して、予防的な対策を取ることの重要性

さて、改めて本題に戻ります。

原発事故という大惨事は、私たち人類がかつて経験したことない被害をもたらしました。福島第一原発から東日本の広範囲にわたって放出された、天文学的な数値の放射性物質――。これらの想像を絶する量の放射性物質が、生態系や私たちの健康にどのような影響を与えているのか、今後与えてゆくのか、いまだ科学的に分かっていない部分が多くあります。このような不確実性の高い問題に関して、私たちが強い不安を感じることは当然のことです。

またそして、放射線被ばくのように、環境や人の健康に深刻かつ不可逆な(取り返しのつかない)影響をもたらす恐れがある事柄の場合、たとえ科学的な証拠が不十分であっても、予防的な対策を取ることが重要となります(『予防原則』と呼ばれます)。科学的な因果関係の解明を待っているうちに対応が遅れ、生態系や健康へ影響が及んでしまったらそれこそ取り返しがつかないことになるからです。環境や人の健康に深刻な影響をもたらし得る可能性があるのなら、それを防止するため、あらかじめ適切な処置を施しておく必要があります。特に、未来ある子どもたちに対して、できる限りの予防的な対策を取ることは私たち社会全体の責務でありましょう。

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もちろん、個々人においては、不確実性の高い課題をどう受け止めるかには相違があることでしょう。違いがあって当然であるし、互いにその違いを尊重し合うことが大切であると思います。新型コロナウイルスに対して、その受け止め方、その対策の仕方にそれぞれ違いがあるように――。

ただし、国や県の政策のレベルにおいてはまた話は異なります。市民の健康に深刻な影響をもたらし得る事柄に対しては、できる限りの予防的な対策を取ることが行政に携わる方々が全うするべき責務なのではないでしょうか。

残念ながら、この10年間の政府の対応は上記の予防原則とはまったく異なるものでした。事故が起こってからの政府の対応は、一貫して「科学的な証明がなされるまでは具体的な対処はしない」ものであったと受け止めざるを得ません。その代わりに盛んになされてきたのが私たち市民の「心持ちや認識を変える」活動です。「放射線についての正しい知識を身に着けよう」「放射能に関して過度に不安になる必要はなく、むしろ心配し過ぎることが健康に悪影響を与える」との啓蒙(?)活動が原発事故以降、活発に行われてきたように思います。

不安やストレスが私たちの健康に大きな影響を与えるのは、その通りのことでありましょう。数年前、《キラーストレス》という言葉が話題になったこともありました(参照:NHKスペシャル取材班『キラーストレス 心と体をどう守るか』、NHK出版新書、2016年)。不安を軽減させてゆくことは私たちが生活してゆく上で非常に大切なことでありますが、原発事故と放射能問題に関しては、より重要なことがあるように思います。それは、不安を引き起こしている外的な要因に具体的に対処してゆくことです。


7、不安を引き起こしている外的な要因への対処を

冒頭で、不安への対処について二つの方法があると書きました。
一つ目は、私たちの心持ちを変えること。もう一つは、その不安を引き起こしている外的要因に対処すること。

不安への対処の仕方
①不安を引き起こしている内的要因に対処する(=自分の心持ち・認識を変える)
②不安を引き起こしている外的要因に対処する

これまで政府が主導してきたのは、①の「不安を引き起こしている内的要因に対処する(=人々の心持ち・認識を変える)」ことでした。この10年、原発事故と放射能問題は、私たちの「心の問題」に矮小化されてきてしまったのだと言えます。しかし、原発事故と放射能問題は私たちの気の持ちようを変えるだけで解決される問題ではないことはもちろんのことです。
原発事故によって、福島を中心とする東日本の広範囲に天文学的な量の放射性物質が放出されました。この厳然たる事実が、私たちの目の前にはあります。この外的な要因こそが、私たちに継続的な不安をもたらし続けているのです。原発事故と放射能問題に関しては、②の「不安を引き起こしている外的要因に対処すること」が重要です。

福島第一原子力発電の事故から10年――。
私を含め、大勢の人々が不安を覚えている対象は、妄想でも幻でもありません。原発事故と放射能問題という現実です。低線量被ばくの影響にさらされ続けるという、私たち人類にとって未知なる現実です。終わらない廃炉作業、行き場のない大量の汚染水など、いまだ解決への糸口さえ見えていない困難な現実です。そしてこのような状況の中にあって各地の原発が再び稼働されている現実です(近い将来、大地震が発生するであろうことが予測されているにも関わらず…)。
不安を引き起こしているこれらの外的要因に対して、適切かつ具体的な対策がなされない限り、私たちの内にある不安はなくなってゆくことはないでしょう


8、小さき声を互いに受け止めあう

伊藤浩志氏の著作の中で特に重要であると思うことの一つは、放射能に対する不安を正当に評価することが、被災した方々の尊厳を回復することにつながるとの指摘です。

真の意味での復興には、被災者の尊厳の回復が欠かせない。そのためには、多様に存在する被災者の健康リスクの全体像に肉薄し、被災者の抱く不安を正当に評価することが必要であろう。近年急速に進歩を遂げている脳神経科学など生命科学の知見を踏まえ、放射線被ばくにおける「不安」をめぐる言説を検証し、閉塞した状況を打開する方策を探る(41-42頁)。

この10年を振り返って感じるのは、放射能に対する不安を口にしづらい重苦しい空気が私たちの社会を覆っていたことです。不安を口にすること自体が何か「悪い」ことであるかのように思わせる「空気」があったように思います。放射能への不安を口にすると「過剰に不安がっている」と批判されてしまう。どころか、被災地の復興に水を差し、「風評被害を助長している」と非難されてしまう……。そのような風潮があったのではないでしょうか。そしてその社会が生み出す圧力が、被災した方々から言葉を奪い、その尊厳を傷つけていったのではないかと思います。


伊藤氏は著書の中で、福島県在住のある女性の悲痛な声を紹介しています。

「みんなと一緒じゃないと、変だと思われる。母も、旦那も、放射能のことは心配しなくて大丈夫という。だんだん私、自分の頭がおかしいのかと思うようになってきた」。福島県在住のある母親は、泣き顔でつぶやく(80-81頁)。

伊藤氏は「そんなことはない」と否定し、女性に不安をもたらしている原因に対処がなされることこそが重要であることを強調しています。原因があり続ける限り、《不安という警報装置》は鳴り続けるからです。

またそして、もしかしたら彼女が《センサーの感度が鈍い我々が気づかない危険を、いち早く察知しているのかもしれない》とも述べます。だから私たちは《高性能の警報装置を持つ彼女の声》に真摯に耳を傾ける必要がある、と。

彼女が不安を感じる原因は、期待通り進まない除染かもしれない。福島第一原発からの汚染水漏れかもしれない。廃炉作業の見通しが不透明なまま進められる国の帰還政策に対する不安かもしれない。ひょっとしたら敏感な彼女は、センサーの感度が鈍い我々が気づかない危険を、いち早く察知しているのかもしれない。だから我々は、高性能の警報装置を持つ彼女の声に、真摯に耳を傾ける必要がある。被災者に寄り添うとは、このような姿勢を指すのだと思う(82頁)。

伊藤氏が記すように、「寄り添う」とは、不安を無暗に取り除こうとすることではなく、不安や痛みに満ちたその小さき声を互いに受け止めあうことであると思います。そのことが、被災した方々の尊厳を回復することにつながり、また同時に、困難な現実の中を生きる私たち一人ひとりの尊厳を回復することにもつながってゆくのではないでしょうか。

……

以上、「不安の正当性」という観点から、新型コロナと原発事故についての私なりの考えを述べてみました。

様々な不安を抱えつつ、日々、懸命に生活をしている私たち……。不安を感じることは「悪い」ことでないことを心に留めつつ、お互いの声にならない声を受け止めあってゆきたいものですね。

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