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連載小説『ネアンデルタールの朝』⑳(第一部第4章-5)

5、
翌朝、民喜は10時過ぎに目を覚ました。遅い朝ごはんを食べ終え、コーヒーを飲んでいると、
「民喜、ちょっといい?」
母の晶子がコーヒーカップを手にやってきて、テーブルに座った。父は仕事、咲喜は学校の登校日で出かけていた。
いつになく真剣な表情の母を見てドキッとする。昨晩の父とのケンカについてだろうか。これからの進路に関すること、または帰還に関することだろうか……? 昨晩、酒の酔いにまかせて父にきつく当たってしまったことを民喜は後悔していた。
母はコーヒーを一口飲み、
「あなたたちこれまで2度、甲状腺検査を受けたでしょ」
予期していたのとは異なる話題を切り出した。
「うん」
民喜は幾分ホッとしてうなずいた。

民喜と咲喜はこれまでに2度、県民健康調査の甲状腺検査を受けていた。一巡目検査を受けたのは2012年、民喜が高校3年生のときだった。結果は二人ともA1判定で、結節ものう胞も認められないとのことだった。
二巡目検査を受けたのは昨年の2014年。民喜は東京にいたので、県外で検査を受けた。2か月後に結果が届いたが、やはり特に異常は認められないとのことだった。咲喜の結果は母から聞いてはいなかったが、特に何も連絡がないから大丈夫だったのだろう。次回の検査は来年になる。
「あなたも咲喜も、2回とも異常はなかったけど……」
母は民喜の目をジッと見つめて、
「駿ちゃんの弟の翼ちゃんがね。この前検査を受けて、B判定だったんだって」
B判定。
民喜はその言葉が意味するところを理解しようとした。胸の内に嫌な予感と不安とが湧き上がってくる。
「もちろん、一次検査でB判定になったからといって、二次検査でがんと診断されるとは限らないし、その確率はかなり低いんだけどね」
母は素早くそう付け加えた。「がん」という言葉を聞いて、思わず体がビクンとなる。
駿の弟の翼は咲喜より3つ上なので、現在は中学2年生のはずだ。民喜たちが中学生の頃、翼はよく駿の後ろにくっついてきていた。人懐っこく明るい性格で、民喜と将人にもよくなついていた。女の子のような可愛らしい顔をしている子だった。
民喜は緊張で背中が硬くなってゆくのを感じながら、
「B判定って……?」
と尋ねた。
「B判定はね、甲状腺に5.1ミリ以上の結節または20.1ミリ以上ののう胞が認められた場合を言うの。その場合、二次検査が必要になる。あなたたちは、二次検査が必要のないA1判定だったでしょ」
「うん」
「恵子さんが言うには、駿ちゃんと翼ちゃんも、2年前の一巡目検査では何も異常はなくてA1だったらしいんだけど……」
恵子とは駿の母の名前だ。二人は以前から連絡を取り合い、放射能に関する情報を交換しているらしかった。
「先々週、恵子さんが泣きながら電話してきて……。『翼がB判定になっちゃった』って……」
そう言うと、母の顔がゆがみ、目から涙が溢れ始めた。民喜はどう答えたらよいか分からず、涙を流す母をただ見つめていた。
「一巡目検査の結果、すでに県内でB判定になった子どもたちが2300人近くいるらしいの」
「そんなにいるの?」
「そうよ、とんでもないことでしょ」
放射能による健康被害の実態について、民喜はこれまで一度も調べたことがなかった。東京で生活していると、そのような話題自体がまったく耳に入ってこない。自分も甲状腺検査を受けてはいたが2回ともA1判定だったのでもう大丈夫だろうと安心していた。
母はティッシュで涙をぬぐい、
「やっぱり静岡に避難するべきだったのか……」
と呟いた。
のど元がキュッと締め付けられたようになり、胃の中が重苦しくなってくる。自分がどこか間違った世界に入り込んでしまっているのではないか、と思う。
自分がいま耳にしていること、これは本当に現実なのだろうか……?
また既視感のような感覚が民喜を襲った。
「甲状腺がんは非常に進行の早いがんなんだって……。あとね……事故当時、16歳から18歳の高校生だった子が最も甲状腺がんになりやすいという結果も出ているって」
母は民喜を見つめ、
「あなたたちの体が心配で、いてもたってもいられなくなる」
そう言って立ち上がり、涙で濡れた手で民喜の手を握った。
「あなたたちの体が、心配なの」


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