連載小説『ネアンデルタールの朝』㉑(第一部第4章-6)
6、
夜、布団に横になりながら、民喜は考え続けていた。
顔をゆがめて涙を流す母の顔が浮かんでくる。
「あなたたちの体が、心配なの」――
母の言っていたこと、あれは紛れもない現実なのだ、と思う。
翼がB判定になったこと。
同じようにB判定になった子どもが県内に2300人近くいること。
「帰れるわけねえべな」――
駿と将人の声がよみがえってくる。
「いつ帰れるんだ? それとも、もう帰れねえのか? はっきりしてくれ! はっきり教えてくれよ!」
思わずそう怒鳴ってしまった自分に対し、父は絞り出すような声で、
「民喜は、民喜のやりたいと思うことをやれ。父さんたちのことは気にしないでいい。町のことも……」
と呟いた。
俺は――
俺はどうしたらいい……?
すると瞬間、
「戻らない」
その言葉が口をついて出てきた。
戻らない?
本当に、それでいいのか?
思わず目を開けて真っ暗な天井を見つめる。俯いて手元の方を見つめている父の姿が浮かぶ。
でも、もう、戻れない。俺たちはもう、あの町には戻れない。
(帰れるわけねえべな)――
民喜はいま、そのことをはっきりと理解していた。いま自分の中で、「戻る」という選択肢が消えていた。
自分はあの町にはもう戻らない――。
そう思い至った瞬間、民喜の脳裏を故郷の風景が駆け巡った。まるで死を目前にした人が見るという走馬灯のように。
それは、事故が起きる前の、あの町の懐かしい風景だった。
空を覆う真っ白な桜のトンネル。その下を楽しそうに行き交う人々。通りに並ぶたくさんの出店。母と手をつないで歩く咲喜。その様子をカメラで写す父。
駅のホームから見える満開のツツジ。線路沿いを彩る鮮やかな赤、白、ピンク。
毎日のように行っていたあの浜。波間に佇むロウソク岩。打ち寄せ、引いてゆく波の音。潮の香り、駿と将人の笑い声。
6歳の時に初めて参加した火祭り。太鼓の音、大人たちの雄叫び。「頑張れー」と町の人の拍手と歓声に見送られ、上半身裸で自分の背丈よりも長い松明を担いで懸命に登った山道。
学校のグラウンドと校舎。教室での何気ない授業風景。
放課後の夕陽が差し込む美術室と、手にしみ込んだ油絵具の匂い。
実家のすぐ裏手にある雑木林。林にこもる植物と土の匂い。奥の方に生えるケヤキの樹。根本のあの洞……。
それら故郷の風景を仰ぎ見ながら、民喜の内に激しい感情が込み上げ、目から涙が溢れてきた。
それは、自分でも驚くほどの激しい感情だった。自分の心のどこに、故郷に対するこれほどの強烈な想いが隠されていたのだろう、と不思議に思うほどに。
心の奥底に冷凍されていた何かが溶け出したように、涙は次々と湧き出てきた。
故郷の一つひとつの風景が、鮮明に、音や匂いまでも伴って、現れては消えてゆく。そうして最後に、カメラを手にした父が呆然と立ち尽くす姿が点滅し、暗闇の中に消えた。
かつて自分の居場所であったものが一つまた一つと暗闇の中に消え去り、沈黙と闇とが民喜を包んだ。
何時間経ったのだろう。自分は眠ってしまっていたのか、起き続けていたのか、よく分からない。暗い部屋の中、民喜は上半身を起こした。枕に手を置く。ヒンヤリと湿った感触がする。
茫然自失したように目の前の虚空を見つめていると、
民喜――
誰かが自分の名前を呼んだ……気がした。静かにささやくような声で。
声のした方に目線を移すと、視界のどこかにわずかな光を感じた。暗闇の中、どこかがほの明るいように感じる。
その微かな光の方を目で追ってゆくと、ロウソクのあかりが見えた。いや、よく見るとそれは、地震で失われたはずのロウソク岩だった。夜の海岸に、先端に火をともしたロウソク岩が立っていた。
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