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【詩】転調

ふと聞こえてきた音楽
懐かしいような音楽
呼び覚まされる軽やかな感覚

これは小学生の頃だろうか
中学生の頃だろうか
それとも高校生の頃の感覚だろうか

はっきりとした記憶というわけでもない
断片的な
思い出にもなっていない
身体のどこかにおぼろげに残っている
それでいて明るい場所へ引き上げてくれるような 
軽やかな感覚

それはハッと僕の心を変調させ 
口元にやわらかな微笑みを浮かべさせて また淡く消えてゆく
記憶の糸のほつれをほどいている間に

ふと漂ってきた匂い
懐かしいような匂い
呼び覚まされる前向きな感覚

これは小学生の頃だろうか
幼稚園の頃だろうか
それとももっと幼い頃の感覚だろうか

あえて「希望」という言葉で呼ぶ必要もない
ただここにいるだけで
心弾む感覚
明確な夢も目標もなくても
目の前のことに楽しみを見出すことができる
身体のすみずみに力が浸透しているような
前向きな感覚

それはハッと僕の心を変調させ
鼻先に軽やかな歌を宿らせて また遠く消えてゆく
記憶の糸の端っこを探っている間に

小学4年生のとき
頭の中が答えの出ない事柄で埋められてしまって
不安で不快で どこか悲しくて
それまで自分を満たしていたはずの軽やかさを見失ってしまったことがあった
頭は重くなり 自分にのしかかってくるようで
それが「悩む」ということだと知った

そう これが「悩む」ということ
自分でそう定義づけてしまって以来
ずっと 悩むことを止められないでいる

やかんでお湯を沸かして
熱いコーヒーを入れる
何か作業を始めるにあたってコーヒーは欠かせない
僕がコーヒーが好きなのは
飲むと気分が少しだけ上がるから
だけではなくて
過去の記憶につながることができるから
コーヒーを入れることによって
それを飲みながら心落ち着けた過去につながろうとする

記憶の連鎖をたどってゆくと 幼い頃の自分に出会う
日曜日の朝
目が覚めた僕の鼻をくすぐるコーヒーの匂い
父と母が談笑する声 妹が観るテレビの音
(起きて一緒にテレビを観ようか それとももう少し寝ていようか)
僕がコーヒーを入れるのは突き詰めると
カップから立ち上がるその匂いが
あの朝へと 自分をつなげてくれる気がするからなのかもしれない
すべてが安全だった 
すべてが安心だった日曜日の朝

僕たちは「安らぎ」という言葉を知る前から 安らぎを知っている

それは音楽でも
詩でも
映画でも
一枚の絵画でもいいのだけれど
自分を変調させてくれる何かを待ち望んでいる

小学3年生のとき
両親に連れられて行った美術館で
深い森とその入口に佇む犬と少年が描かれた絵画を前に
ふと心が熱くなって 懐かしいような切ないような感覚になったことがあった
美術館を出てこのことを母に伝えると
それが「感動」ということだと言った

そう これが「感動」ということ
母にそう定義づけてもらって以来
ずっと感動させてくれるものを探している
そして
自分もそのような何かを創り
誰かに手渡してみたいと思い続けている

郵便局へ手紙を出しに行く
これからやらなくてはならない仕事
正解の見つからない問題にいつものように頭を悩ませながら
(今日の県内の感染者数は……)
(次の礼拝はどうしようか……)
血の気が引いた
まるで透明な存在になってしまったかのような僕の耳もとに

ふと聞こえてくる音楽
懐かしいような音楽
呼び覚まされる軽やかな感覚

それはハッと僕の心を転調させ 
口元にやわらかな微笑みを浮かべさせて またどこかへ消えてゆく


(初出:詩誌『十字路 30号』、2021年10月発行)


*お読みいただきありがとうございます♪

noteに『ネアンデルタールの朝』という小説も掲載しています。宜しければご覧ください。



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