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幸福論

2024/01/01

幸福論とは、椎名林檎である。

紅白歌合戦で、25周年でメドレーを歌いコメントを
「どなた様も良いお年を」と発した人で
私の言語化できない言葉を言語化してくれる一部の人でもあり、とにかく私が勝手に救われている人の1人である。

椎名林檎の歌に「幸福論」と言うものがある。

椎名林檎はタイプじゃないなーとか歌はなー、と言う方は歌詞だけでも見ていって返って欲しいので掲載します。

本当のしあわせを さがしたときに
愛し愛されたいと考えるよになりました。

そしてあたしは君の強さも隠しがちな弱さも汲んで、

時の流れと空の色に何も望みはしない様に
素顔で泣いて笑う君にエナジィを燃やすだけなんです

本当のしあわせは目に映らずに
案外傍にあって気付かずにいたのですが…。

かじかむ指の求めるものが 見慣れたその手だったと知って、

あたしは君のメロディーやその哲学や言葉、全てを
守る為なら少し位する苦労もいとわないんです。

時の流れと空の色に何も望みはしない様に
素顔で泣いて笑う君のそのままを愛している故に

あたしは君のメロディーやその哲学や言葉、全てを守り通します。
君が其処に生きているという真実だけで 幸福なんです。

椎名林檎 幸福論

私が記したい事について太文字で表記させていただいたので、咀嚼をして理解して満足した方はもう閉じてもらっていいのです。大好きな人や、今後大好きな人が現れたときにその気持ちを忘れないでほしいだけなので。

まあ、つまりはそう言う事で。
ジェンダーだとか色んな問題がまだ公じゃない時に、
あなたがあなたでいる事、そのままが私は好きだと言うことを謳っている歌なのです。

時間がこうしている間にも1秒ずつ刻みその積み重ねで1時間、1日、1年と月日が経ちますが生活していく中で時間に何も求められないし求めないし、空の色が緑であってほしいなー!なんて思わないでしょう、自然現象なので。
時間も空の色も自然であるがままな事に強い望みはしないよね。
時間が元に戻ってほしい時もあるし、空が晴れていてほしい時もあるけど、それも全て汲んで私たちは生活している。
自然が自然であるがままに受け入れて望まないで、それと同様に私も君にあるがままを望んでいるだけなんだよ、と言う事なんです。

そんなのって純愛じゃん。

そうこの幸福論は、全肯定の歌なんです。

売れっ子漫画家×うつ病漫画家の登場人物である矢晴に、少し自己投影してしまう気持ちの悪い人間なので、そんな卑屈で陰鬱な人間には肯定は麻薬である。

あなたがこれまで生きてきた中で得られた知見や考え、それがあなた自身のメロディや哲学、選択してきた言葉たち全てがあなたを形作って輪郭としてあなたとして成り立っている。あなたがあなたでいられるように、あなたを守るくらいに要する苦労なんて厭わないんだよ、と。

私もそんなこと言われてみたかったよー、と思うわけです。

最近読んでいる、私に言語化の補助をしてくれる作品でも同じような内容が描かれており

わたし君の色が大好きな生き物なの

君の仕草や考え方の癖や
声の抑揚のつけ方や
そこにいる感じが好きなの

それが好みなの

だから何ができるかってあんまり関係ないんだよ

青野くんに触りたいから死にたい 椎名うみ

優しさが優しさで返ってくると私だって思いたいわけ。
他人にそういったふうに理解を示して、肯定を肯定で返してほしいわけですよ。

優しい人にずっとなりたかった。
優しいっていう言い方はなんとなく好きになれないけど、いい表現が見つからないから優しいにしておきます。

人間が苦手だったから人を理解しようとして高校の時に、ガチの人間観察をして言葉の研究をした。
言い方一つで誘導できることを学んだ。
言葉って怖いなと思った。
そこまで理解をできたからこそ、その当時は少ない相手からの言葉でどう言った話に落ち着いて何を言いたかったのかを予想しながら話を聞いていた。自分が予想を立てた内容に、相手の話は大きく外れることはなかった。

その時に言って欲しい言葉を与え続けたら、相談役や仲介者のような立場になっていた。

ただ、意外と私もそこまで冷たい心を持った人間ではなかったみたいだから、思ってもいないことを言い続け、知らないうちに降りかかる好意は重荷で心も体も削がれるような感覚でずっと泣いていた。

でもそんな事をしていると「優しい」と言われるようになった。

都合のいい人を優しいと呼ぶなんて聞いたことがあるけれど、半分そうだし、半分そうじゃないとも思う。

優しいのは事実だとして、都合がいい人だと認識して優しいと言っているのはその施しを受けている人じゃないか。優しいと思っているならその人を頼っちゃダメだよね、とも思う。
色々な考えを持ってNOやYESを使い分けられる人はちゃんとしていると思うし、そういう人と関わって「優しくない」「厳しい」だのいう人は自分に与えられた誰かの優しい基準で物事を考えているし、それこそ都合がいいよね。

と思って、あーそうか。じゃあ優しいってイエスマンなのかなとか思ったりする。イエスマンは使い勝手によるよね、とものみたいに発言してしまうけれども。
凪のお暇で主人公はいいように雑用処理に使われているが、あれだってその人を取り巻く環境で変わると思う。雑用処理としか考えないで面倒臭い仕事を回せば、それは「都合の良い使い勝手のいいイエスマン」、周りの人間がイエスマンだから本当に自分がどうしようもない時に少し手伝ってもらおう、という実績の積み重ねをすると「優しい」のではないかとも思ったりする。

話がだいぶそれてしまったけど、私は高校の時その「優しい」人だった。自称は胡散臭くなってしまうので補足として私は今でも優しい人になりたいと思っているし、自分のことは優しいと思っていない。ただ、高校の時にクラスメイト多方面、教師等から「もっとエゴ的になれ」と言った趣旨の言葉をもらっている。

その優しさをもってして、相手が欲しい言葉を都合よく連発していて「優しい」と言われても、私の身が削れるだけで割と無茶苦茶だったクラスメイトたちからは優しさが返ってくることはなかった。
接待じゃないけど、わざわざ気疲れする人達のご機嫌取りなんて1時間もしたくないでしょう、それが3年だ。3年間、私は人への理解を深めたくて、自分を変えたくて、優しくなりたくてやり抜き通した。色んな人がいると思った。高校は私にとって社会より社会だった。小学校から中学校までは社会から自ら逃避していたので私は高校で人間を学び社会を学んだ。

代償は大きかった。自分の輪郭を見失うし、二重人格紛いにもなり、男女のゴタゴタや、人間関係のトラブルにも巻き込まれた。高校時の努力は人を理解しようとして築いた人間関係、過程を話そうとすると今でも涙が溢れる。
その時はTHE BLUE HEARTS の 人にやさしく を狂ったように聞いていた。だってそう、気が狂いそうだったんだもの。高校生活を頑張れ、と肯定と優しさで埋めてほしかった。

優しい人は自分のことを優しいだなんて言わない。真実だと思う。自分の事を優しいだなんて、傲慢だと思う。恥ずかしくないのかとさえ思う。わざわざ自分で言わなきゃいけない優しさってなんなんだよ、言わなきゃ誰かに頼ってもらえないの?頼りないんだね。

でも優しくできた日には優しさを優しさで返してほしいじゃないか。でもそんな、人に優しくしてもらいたいからって、優しくするのは凄く醜いと思う。見え透いたその汚い下心を捨てろよ。

私はよく自分と自分が喧嘩する。

最近一つわかったことがある。
肯定する時や、人に優しくしている時は、傲慢だけど、やっぱりそれを返してほしいから、誰かが自分に優しくしてほしい救われたいだけだったんだと。

私が誰かに与えた、優しいと言われた言葉、私が救われたかったんだよ、だからいつかいつか返してね。

でも高校の時は帰ってこなかった、意味がなかったから私はもうそういう事をやめた。自分が一方的に疲れる優しさなんて接待だから。

幸福論において、私も誰かにこんなふうに思われていたらどれだけ救われただろう。

恋は盲目だとある。

好きな人や愛してる人には、夢中の時なんて全肯定なのだからそれは宗教だし盲目に決まっているじゃないか。
幸福論の歌詞ぐらいにはみんな思っているよ。

君は教祖なんだから裏切っちゃダメだよ、君は教祖なんだから教徒に不安を感じさせちゃダメでしょ。

生まれてはじめての宗教が君です

五月の蝿 RADWIMPS

私は、幸福論のようにそう思われたかったし、そう思われるような人間になりたいなと思います。
愛し愛されるような人間関係を築いていけたら見返りのいらない優しさと肯定で埋めるし埋めてくれるような、そんな関係が窮屈じゃない何かを獲得したいですね。

それでは良いお年をお迎えください。

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