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ねこの孫15

「巌さん、筑前煮と切り干し大根食べました?」
いきなり女将が言った。
なぜ、開口一番そんな事を訊く。
巌の胸に嫌な気持ちが湧いてきた。
昼間、杏が「食べちゃだめー食べちゃだめー」と言った煮物だ。
そのせいでまだ食べてはいない。
「いやあ、まだ手を付けてないよ」
巌はそう返事をした。
それを聞くと女将は胸に手を当て、
「あーよかったわあ」
と言った。
「なんだい。何か問題でもあったのかい」
「いやね、さっき同じ物を食べた方が気分悪くしてね。もしかしたら私の料理のせいかもしれないって思ったら、もう巌さんが心配で心配で飛んできたんですの」
「気分悪くしてというのは、食中毒みたいな感じですかな」
「そうね。その方の体調のせいかもしれませんけどね。私も味見したけど、ちょっと酸っぱいような気がなきにしもあらず…って感じでよくわかんないんですの。でも念の為食べないで下さいね。捨てて下さい。お願いします」
女将は頭を下げた。
もし食中毒だったら店は何日か営業停止になるだろう。
食い物屋は大変だなあ、と巌は思った。
「わかりましたよ。そういう事ならおっしゃる通りにします」
女将はパッと顔をあげた。
「ありがとうございます。これに懲りないでまた店に来てくださいね」
「ああ、そうしますよ」
女将はそれだけで帰っていった。
巌が居間の食卓に戻ると杏がテーブルの上で、「こわいおばちゃん、また来た」と背中の毛を逆立てていた。
「女将の声が聞こえたか。杏は耳がいいからな」
「なにしに来たの」
「杏が食べちゃだめって言った煮物が本当に食べちゃだめな煮物だったんだよ。傷んでたらしい」
「ウソだよ」
「えっ?」
「こわいおばちゃんが、毒入れたんだよ」
「何言ってんだ」
巌は冷めたチーズ入りとんかつを口に入れた。
「だってあれから毒みたいな匂いがしたもん」と杏は言う。あれとは筑前煮と切り干し大根だ。
「杏よ、それは傷んですえた匂いじゃないか。食べ物は悪くなると酸っぱいような匂いがするもんだ。糸を引いたりしてなあ。夏場は食中毒に注意しなきゃ」
巌は麦入りご飯を食べ、すっかり冷めた味噌汁も飲み干した。とんかつは結局半分残した。
「明日は買い出しに行ってちゃんとした料理を作るかなぁ」
巌は言った。
杏はペロペロと顔を洗っている。ご飯を食べた後丁寧に前足を舐め、耳から顔にかけなぞっていく。
「杏も茹でただけのささみだったら食べていいだろ。紀子は人間の食べ物はだめッとか言ってたが、猫用のだって茹でたまぐろやらカツオなんだから」
巌は伸びをした。
若い頃はよく自炊をしたもんだった。安い魚のアラを煮たり、料理の本を見て混ぜご飯を作った。
あの混ぜご飯はおいしかったなあ。紅しょうがを添えて…またあれを作ってみようか。
巌は食後の余韻に浸りながらそう考えた。


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