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親父と林檎8

「親父は婿養子だったんで婆ちゃんに頭があがらないっていうか、遠慮があって家に居づらいというのもあったのかも…。」
俺は若い頃の親父を思い浮かべた。親父の顔はぼやけている。影の薄い男だった。
ガキの頃の思い出は拭い去れない汚れのように頭の中にこびりついている。
訳のわからない憤り。
誰もいない荒れた家。
しんねりした畳。
母も父もいない食卓。
炊飯器の中の黄ばんだ飯。
俺はそんな家が嫌で嫌でたまらなかった。
小学校から帰るとランドセルを放り投げて、歩いて30分かかる婆ちゃんのアパートに行くようになった。婆ちゃんはいつも「しょうがないねぇ」と笑って出前の寿司やラーメンを取ってくれたもんだった。
両親は俺を育てようという意欲がなかった。今でいったらネグレクトといえない事もない。母に言わせれば衣食住が足りてるんだから、ふざけんなという事だが、生んだら生みっぱなしか。まあ、婆ちゃんがいたおかげで俺はずいぶん助かったが家庭というものは虚構だと、いつしか思うようになった。
「ふぅん」マスターは渋い顔をして相槌をうった。
「そんで2ヶ月前ですね。いきなり母から電話がきて親父が死んだつって。俺は突然で驚いたんですが、母の口のきき方がぶっきらぼうなんで事情がよくわかんなかったんです。母がとにかく家に来いって言うんで行ったんです」
マスターは真面目な目で俺をみながら水を飲んだ。俺もつられてプッシーキャットをストローで吸い上げた。俺はまた話した。

母の家に行くといつも通りしなびた家の匂いがした。
その匂いを嗅ぐと生きているのが切実につらった記憶が刺激される。
おまけに死が家の中にいた。
生き物が決して逃れる事のできない宿命さだめが俺を待ち構えていた。
いや、実際死を背負ったのは親父だが、俺は自分の畏れが現実になった事を目の当たりにして、びびった。しかし、俺を迎えた母はいつものむっつり顔で相変わらずの仁王顔だったので、俺の反発心はむくむく頭をもたげた。
「親父は1ヶ月くらい帰って来なかったんだけど母はまさか死んでると思ってなかったそうです。いつもの放浪で、どうせその内帰ってくるだろうと。ある日、警察から電話が来て、どうもお宅の旦那さんらしき遺体があると…」
「はああ〜」
「遺体はやっぱり親父だったそうで、腐りかかってたんですぐ焼いたそうです」
「ふぅん」
「俺は一応、骨になった親父を見たんですけど…」親父の骨を見ても親父だ、という気がしなかった。しかし、言いようのない感情が胸を締め付けた。
それから俺は母と日本酒を痛飲した。
酒の弱い俺は一口のんだだけでドキドキしたがやけくそで呑み干した。
ぐでぐでになって母と畳の上で雑魚寝をした。その夜中だ。母のいびきで目を覚ますと…。
「親父がいたんです。親父が座卓の上で四つん這いになって、ねこまんまを食ってたんです」
「ねこまんま?」
「そうです。親父の好物だったから、かつお節と醤油をかけた飯を置いてお供えにしてたんです」
「うーむ」
「親父は俺と目が合うとにこっと笑って、聡、来てくれたんだなあって言ったんです」
「うん」
「でも、すぐ消えちゃって、俺も酒飲んだせいで気持ち悪くてまた寝たんです」
俺は思い出す。
朝になってうんざりするようなしらじらした朝の光。
俺らの呼気で淀んだ空気の中、座卓の上には酒のグラスと俺と母が食い散らかした柿ピーの残骸と食いかけのねこまんまがあった。
ねこまんまは確かに母がてんこ盛りに飯を盛り上げたのに、半分に減っていた。
俺は夜中に親父が出てきて食ったんだと母に主張した。
だが母はまったく信じようとせず、酔っ払ってあんたが自分で食ったんだろうと俺に言った。俺は母が言う事を信じない上にめしも俺が食ったんだと決めつけられてムカついた。
「親父が化けて出たんだよ!」
「あんた、弱いくせに日本酒なんか飲むからだよ!悪酔いして夢見たに決まってるだろ!」
「あんたがお清めなんて言ったから飲んだんだ!」
「人のせいにしてんじゃないよ。バカ!」
「あー!俺はバカだよ!もういいよ!」
俺は頭痛と胸やけで吐きそうになりながら実家を飛び出した。
母と喋ると死ぬほど嫌〜な気分になる。
親父の死の悲しみよりも母へのムカつきだけが残った。

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