優しさ。
これまでの人生で、受け取ってばかりだった “優しさ”。
照れることなく、相手を選ばずに、優しさと愛をふりまく風くんとその音楽に出会って、自分を顧みた。ホント「くださいくださいばっか」だったなぁ、「与えられたものこそ、与えられるもの」なのね、と。
人って、どれだけ長く生きたかではなく、どう生きて来たかで人格形成されるよね。彼は、ひとつの信仰、ひとつの目標(音楽)だけに邁進して来たから、凝縮されて、純化された表現ができるようになったんだろう。
求め過ぎて、絞り切れなくなって、手に余るようになると、結局、迷って、散漫になって、どれもを失って行く。生きるって、取捨選択の連続だ。
ただ、自分の意思では選べないものもある。いつどこに生まれて、いつどこで死ぬか、だ。「天寿を全うする」というのは、それぞれの人生においてどのタイミングなのか。運命は生まれた時点で定められたものなのか。
覚悟して緩やかに待つ死、予期せず突然訪れる死。本人にとっても、周囲の人間にとっても、どちらがいいのかは、見送る側としてどちらも体験した今でもわからない。
共に暮らす日々の中で、優しさも、愛も、全然足りていなかったと後悔しきり。目の前にいた時に、言葉を交わせるうちに、触れられるうちに、もっともっとできることがあったはず。
人間の供養はお寺さんがしてくださるのでもう安心。ただ、愛犬達の遺骨をどうするか、ずっと悩んでいた。そばに置きたい。でも、わたしが死んだらどうなる…。
母の一周忌の際、一緒にお墓に入れないか、ご住職に相談してみた。と、ご自身の愛犬との過去の体験を話しつつ、提案されたのはやはり「土に返す」ということだった。
それから一週間経ったクリスマス・イヴ。朝ヨガの瞑想で、直には感じることができなくなった愛犬の温もりを、心の中に静かに灯る光に感じた。彼の魂はわたしの内にあって、もう死ぬまで一緒。
現世での命が尽きてもなお、愛と温もりをくれる彼。不甲斐ない飼い主が心配で放って置けないんだろうな。まっすぐ見つめる彼のまなざし。瞬きもせずに向けられた汚れも曇りもない瞳を思い出す。
もうすぐ一年。わたしの命があるうちに、彼らを土に返してあげなくては。