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死んだ後に見られたくないもの。

夕方、天然酵母で仕込んだパン生地やら、切った野菜やらをバタバタと片付けて、ヨガのオンラインレッスンの準備を急いだ。ヨガマットを敷いて、いざログイン。

ん?………すでに、講師の先生が瞑想中。え?………。

開始時間を1時間、間違えていた。祭日なので繰り上がっていたらしい。残念な思い込み。お彼岸でざわつく心を鎮めるために『呼吸と瞑想』を楽しみにしていたのに。

瞑想は、すっと入れる時と、雑念ばかりでダメな時がある。今日はどちらか知りたかった。自分ひとりでやればいいのだけれど、導いてくれる人がいる方が集中できる。

春分の日の今日は色んな吉日が重なる最強の幸運日と言っていたけれど、わたしに限ってはなーんもいい事ないなー。不毛な一日だったなー。と、心の中でぶつくさ。

たまたま日没近くにラジオから流れた『帰ろう』を聴いたこともあって「わたしがいない世界を 上から眺めていても 何ひとつ変わらず回るから」な気分になった。

そうは言っても、わたしがいなくなった後に、SNSのアカウント停止の連絡とか、各種契約の解約とか、持ち物を処分してくれる人を決めてお願いしておかないと。

昔、文学好きの知人と太宰治の話になった時、「死んだ後に、書斎とか日記とかをああいう風に(太宰みたいに)公開されるのは絶対に嫌だ」と、その人は言った。

「でも、死んじゃったら本人はどうにもできないからなぁ。嫌なら生きてるうちに片付けたり処分しておくしかないよね」と、わたしは言ったんじゃないかと思う。

自分が死んだ後に他人に見られたくないもの、この世に残しておきたくないものは、生きているうちに自分で何とかするしかない。そのタイミングは一体いつだろう。

そもそも、そこまで見られたくないものってどんなもの? たとえば、人に言えない秘密なら自分の肉体と共に消滅する。その秘密が記録になっていれば残ってしまう。

わたしの中学高校時代の日記は鍵付きの引き出しにしまってあった。が、両親が机をよそに譲るため、鍵を壊して無断で中身を出してしまった(絶対読まれたと思う)。

死んでから見られるなら恥ずかしいも何もないし、イメージと違うとか思われても後の祭りだし。でも、ワカメみたいに伸びた下着とか、そういうのは捨てとくべきか。

で、この日記はどうかと言うと、消すほどでもないw。

画像は、へなちょこで恥ずかしい抹茶のメレンゲ。絞りの修行中。











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