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そこはたぶんお城だった

 ベランダから向かいの建物が見えた。見えるとどうしてだか安心した。背中の遠くから階段を下りる足音が聞こえた。壁にもたれているととんとんという振動が伝わってくるような気がしたから、そういう時わたしはぴったり姿勢よく背中をつけた。
壁にもたれると背中に白い塗料が付いた。塗料は触ると適度に湿り気がありながらもさらさらした不思議な感触で、手が汚れた。払っても払っても汚れは落ちないのだった。
 
 かつて一緒に住んでいた記憶のある男のひとに連れられ、このアパートに越してきた。幼かったわたしにとっては長時間の車の旅だった。せいぜい5,6時間の移動だったのかもしれないけれど、初めてそんな長時間を車内で過ごし、緊張して車酔いもしなかった。幼いわたしはよく車酔いをして、しょっちゅう道端に降ろしてもらっていたというのに。
 アパートに越してしばらくの間、わたしは部屋の中に入れなかった。知らないひとのいる家。知らないもののあふれている部屋。飛び交う聞きなれない言葉。乾いたスポンジが水を吸うみたいに、知らないものが体に吸収されていく感覚がいやに気持ち悪かった。わたしはそれまでの数年間で手に入れた馴染みを大事に大事に抱え、知らないものを拒否しようとしていたのだと思う。気持ちに素直に従ったら、とてもその部屋には入れなかった。
 
 ひとりでも平気だった。おもちゃや人形がなくても遊んでいられた。向かいの建物の人影。駐車場の車、色、音。いつも同じ場所に座り込んでいる、すごい過去がいっぱいありそうな風のおばあさん。銀色の自転車に乗る、するめをひっちぎったような頭の若い男性。アパートの部屋は一階だったから、ベランダは内でも外でもない曖昧な場所だった。
 間取りの都合で、ベランダにはたっぷりの西日が差した。空は青いまま暗くなり、やがて血のような夕日がすみずみまで差すと、水をかけたみたいに風景がくっきり見えた。目が良くなったのかしら。夕方になるとそんな勘違いをした。
 
 いわゆるご飯は食べられなかったけれど、時折部屋の中から差し出された果物なら食べた。ガラスの小皿にお行儀よく二切れ、りんごはうさぎに剥いてあった。わたしがいつ食べるのかわからなかったからだろう、うさぎりんごは変色を防ぐための塩水の味がした。泣きながら食べたわけではないのに、いつもりんごは少ししょっぱかった。


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