真夏の昼の夢
その日、外の気温は40度近くに達し、街はじりじりと暑さに包まれていた。汗がしたたり落ちる中、俺は一方的に好意を抱いている女の子、かおりんが働く店に向かうことに決めた。
彼女に会うのは一年ぶりだ。恐らく彼女は俺のことなど忘れているだろう。それでも、俺の心は緊張でいっぱいだった。
珍しく、家に忘れ物をしてしまった。イヤホンをせずに外を歩くのは何年ぶりだろう。今日は特別な日だと思い、耳を完全に開放しながら街を歩くことにした。
駅前のファーストフード店に入る。青春時代に親しんだメニューを味わいながら、その価格の上昇に対する悲しみを噛み締めた。向かいの席には、彼氏を作りたいオーラを放つオフィスレディが二人、アイスコーヒーの氷が溶けるほど真剣に男友達の話をしていた。
一人の女性は、容姿にこだわりがあるようで、写真を見ながら「コイツはアリ」「コイツはナシ」と連れに述べていた。どうせ今風の韓国風塩顔イケメンが好きなんだろうと思って聞いていると、スキンヘッドにヒゲの男を「アリ」と判定していた。ゴリゴリ系が好きなのかと思った。
そのスキンヘッドの男は家族思いで優しい青年だが、唯一の欠点は働いていないことらしい。「じゃあ、やめとけ。」と俺は心の中で呟いた。働いていない人を恋愛対象に含めていいのは、高収入の人だけだ。
隣の席の女性は、ずっと彼氏らしき男に仕事の愚痴を話していた。
せっかくの休みの日に、つまらない愚痴を永遠に聞かされる男のことを考えると、少し可哀想だなと、これからピンク街に向かう男が心の中で呟いた。
店が混んできたので、外に出ることにした。入店時にカウンターで店員を怒鳴っていた人が、まだ説教を続けていた。こういうエネルギーは時に羨ましくなるものだ。さて、どうやって入店までの時間をつぶそうか。
駅を少し歩くと、目の前に広がる景色が一変した。
オフィスビルや飲食店が並ぶ駅前から、一気に色とりどりの看板が目立つラブホテルや風俗店が立ち並ぶエリアへと変わっていくのがわかる。
昼間の明るい光の中でも、鮮やかなピンクや赤、紫の看板が目を引き、街全体がセクシュアリティに対する率直さを隠さず、異なる世界に迷い込んだかのような印象を与えていた。
デリヘル嬢と、それに伴う客らしき男性が共にホテルを出てくる。男性は「また遊ぼうね。」と言い残し、駅へと向かって行った。彼の後ろ姿を見つめながら、切ない表情を浮かべる彼女を見ていると、彼女が早くこの仕事を辞めたいと願っているように感じられ、胸が苦しくなった。
なんやかんやで店に行く前にウロウロして疲れた。グラセフで例えるなら、メインミッションを放置して、テニスの試合で白熱しすぎて腱鞘炎になったような感じだ。
キャッチをかき分けて、店内に入ると、爽やかな若者が席まで案内してくれた。電話予約をしたときの担当者とは違うけど、その時話した内容をしっかり理解しているようで、スタッフ同士の連携が見事だ。
綺麗に手入れされた、ふかふかの黒いソファーに腰を掛け、彼らの動きを見ていたが、声を掛け合い、店内を規律の中で自由に動き回る姿に、マンチェスター・シティのサッカーのような美しさを感じた。ジョッキを持って特によく動いている細身で短髪の彼が、ベルナルド・シウバに見えた。
今日は日曜日。俺の同級生たちは今頃、子供の世話で追われているだろう。背徳感が、ビールを最高に美味しくさせる。
麦芽の苦みが強い。普段家で飲んでいる銘柄とは違う味だから、外で飲んでいると感じる。
麦の風味を楽しんでいると、カーテンの向こうから、かおりんが現れた。去年は長い髪を左右に縛ってツインテールにしていたけど、今日は下ろして綺麗に切り揃えられたロングヘアーをなびかせている。かわいい。
ビールとウーロン茶で乾杯をし、彼女から名刺をもらう。コストカットやペーパーレスが主流の時代に、昭和の香りを感じさせるこの文化は、懐古趣味の自分にはたまらない。
この店では、不定期で名刺のデザインが変わる。彼女に会うたびに名刺をもらっているが、これで四枚目だ。俺には妻はいないが、もし同じ女の子の名刺が何枚も財布に入っているのを見られたら、離婚されてもおかしくないだろう。
そんなことを考えてブルーな気持ちになっていたら、彼女が「集めてるもんね。」と笑いながら言ってきた。「そうだよ。」と俺は答えた。
かおりんは、俺が彼女の名刺を大事にしていることをちゃんと覚えていてくれたようだった。そのことがわかると、心が軽くなった。
以前、彼女が推しているアイドルの生写真を差し入れしたことがある。彼女はそれを受け取った後、生写真を硬貨ケースに入れてデコレーションする動画を送ってきてくれた。
俺はお返しにシャンパンを入れたり、ハイブランドのバッグを贈ったりするような男ではないことを、彼女も理解しているはずだから、彼女の行動にきっと下心はない。
貴重な休みの時間を使わせてしまったことに申し訳ない気持ちもあったが、彼女が喜んでくれたようで本当に良かったと思う。だからこそ、彼女からもらった名刺を俺は大切にしているのだ。
彼女はアイドルオタクだから、話が合うので、本当に楽しい。
最近はなにをしているのか聞かれたので、一周回って青春時代に追いかけていた某アキバ系のグループにまたハマってると答えた。
そのグループは、代表曲もあり社会現象にもなっていたから、昔のメンバーなら日本人の殆どが知っていると思うけど、最近のメンバーについては知らない人も多い。
だから、彼女に、今の推しメンを紹介してあげようと思い、今日は来たのだが、彼女にその必要はなかった。
現在19期生までいることも知っており、俺の推しであるMちゃんが、顔立ちがはっきりしていて可愛いということや、現在ドラマに出ていることまで理解していた。マジで脱帽するしかない。
そこからは、時折キレ芸を交えながらオタ話をするなど、楽しい時間が過ごせた。俺はパブサを趣味としており、ファンでない人の書き込みを見ることもある。例えば、某アキバ系のグループのように、メンバーが頻繁に卒業と加入を繰り返すアイドルがテレビ番組に出演した際に、「今のメンバー1人も知らない。」といった書き込みをXにわざわざする老害の行動心理が本当に理解できないと話したところ、共感を得ることができた。
カメコが撮った写真をよく見ているようで、どのグループでもやればいいと語っていた。それについては俺も同意だ。プロは構えて撮るところ、アマチュアは一心不乱にシャッターを切っていると思う。それが時に味になるときもある。
途中、彼女は他のテーブルのヘルプのために離席した。週末ということもあり、他のテーブルは団体客が多く、俺とは友達になれそうもない、空間でもよく通る大きな声を出す陽キャばかりだった。
あの甲高くてうるさい声を聞いていたら、高校の頃、嫌いだった運動部の連中を思い出した。
当時、クラスで唯一仲良くしてくれるサッカー部の男の子がいた。その子と放課後、電車に乗っていると、連中が話しかけてきて、ホームに降りると彼を連れ去ってどこかへ行き、一人で改札を通るということが度々あったのを思い出して苦しくなってしまった。
彼女は、今、デリカシーのない彼らから、いやらしく触られたり、しょうもない自慢話を聞かされているのだろうか。考えたら憂鬱になり、ひどく絶望し、ソファーに横になってしまった。アルコールも入っていることもありすぐ眠れた。
目を開けたら知らない天井というか知ってる女の子の顔があった。好きな人が目の前からいなくなるというのは、いくつになっても寂しいものだ。
陽キャラから陰キャラのテーブルに彼女が帰ってきた。テンションの高低差がありすぎて耳がキーンとなってないかと聞いたら、「私は陰キャラだから大丈夫。」と言っていた。
「実際4人ぐらいで行動するのが一番しっくりくる。本当に仲のいい友達は3、4人。」っていうのも俺もそうだなあと思った。
だから、SNSで結婚式の動画を見るたびに、「よかったね。」とか「おめでとう。」とかそういう感情より先に、この人にはこんなに来てくれる人がいるんだってショックを受けるって話は、めちゃくちゃ共感した。俺も、もし結婚式やるとしたら、代理出席頼まなくちゃなあと思ってた。
彼女も同級生の姿を見て、結婚という選択肢が頭の片隅にあるのだろう。それは俺も同じだ。話の流れで、「俺と結婚を前提に付き合ってほしい。」とは、たとえ酒が入っていても言えなかった。ただ、本音を言うと、その時、彼女となら結婚してもいいかなと思った。彼女が人気商売のプロであるため、俺は夢を見せられているだけだと思う。しかし、そんな夢を追いかけたいという自分がいた。
俺だって、同じく若くして厳しい世界に飛び込んでいる身である。べしゃりを得意とし、凄腕ラッパーの如くベロを動かし、陳謝というパンチラインを炸裂させ、顧客という名のリスナーをぶち上げてきた実績があるのだ。
15の頃からクリスマスもお正月もバレンタインも仕事に捧げてきたし、皆が嫌がる仕事も人一倍いや二倍三倍引き受け、幾多の死線を超えてきた。自己犠牲は朝飯前、聞き手に回るのは得意だから、俺は彼女の悩みだって朝から晩まで聞くし、良いところだって沢山引き出せるのだ。そして誰よりも俺は彼女のことを心の底から愛しているのだ。
俺がそんなことを考えている間、
彼女は、陰キャラの俺の隣でリラックスし、
完全にオフっていた。
靴まで脱いで、スマホをいじっていた。
「お化粧をして、わざわざ頭にリボンまでつけてやってるのに、待機が長いとがっかりする。」とか「衣装のコンセプトがわからない。とりあえず用意されたから着ているけど。」と愚痴る姿も可愛い。
人間らしく愛おしいなあと笑っていると、
シウバが終了を知らせにやってきた。
女の子との別れ際というものは、うまくいったときは深い寂しさが残り、
うまくいかなかったときは「やっと終わった。」と安堵するものだ。
この時は間違いなく前者の感情が支配していた。
昔付き合っていた彼女との別れ際と同じ感情が、まるで時が逆戻りしたかのように胸を締めつけた。過去の痛みと再び向き合わされるような、切ない思いが心に広がった。
永遠や無限といったものは、この世に存在しない。
大切にしているものを、俺はこれからも奪われていくのだろう。
これ以上、失いたくない。
そう思いながら、俺は彼女の唇に自分の唇を重ねた。
その時の彼女の表情は見ていないが、
俺には容易に想像ができた。
だから、「また遊ぼうね。」ではなく、
「ありがとう。」と伝え、店を後にした。
振り返ると、そこには笑顔の彼女がいた。
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