虐待 未成年者が小学6年生の冬、16時半まで帰宅しなければならないのに10分過ぎたことに母親が激高した。その結果、未成年者は家の外に出され立たされた。その時間はちびまる子ちゃんが始まってサザエさんが終わるくらいだったことを未成年者は記憶。その後、家の中に戻されたものの、「窓の前に立っとけ」と言われ立たされ続けた。その状況はテレビも電気も消してあり暗闇の中、異様な光景であった。そんな中、未成年者は時間の経過を把握することができなかった。そして未成年者は母親が寝たのを見計らって
私は、人生で一番泣いた日を覚えています。 それは10年前、離婚裁判中で子供と会えない日が続いていました。お互いの弁護士が長期間、子供が父親に会えない状況は良くないということで相手方の弁護士事務所で4時間だけ会わせてくれることになったのです。一年?一年半ぶりだったでしょうか。私は先に2階の事務所で待っていました。そうすると子供が弁護士に手を引かれて入ってきました。その時、子供を抱っこして階段を降りるときにその温もりと重みに涙が溢れました。この日が人生で一番泣いた日です。 私
5月10日 親権者変更の審判の2回目期日 調査報告書 【本件についての意見】 本件については父に親権者を変更することが子の利益や福祉に適うと考える。 これまでさんざん逃げ回り、利己的に立ち回り、嫌がらせを続けた母親も調査報告書によりあっさりと親権者変更を認めました。 この他にも子の意向については、引き続き父と暮らす為、親権者変更を希望し、その主な理由として母や継父からの体罰をあげていた。と記されていました。また母方での暮らしに不満や不安は根強くあったものとうかがわ
2月20日 初回の親権者変更の審判の日となりました。私の地元の地方裁判所に母親はきていました。交互に裁判官に呼ばれましたが、私の聴取の時間は短く、相手方は長かったです。後日、調査官2名による子供の意向調査が行われました。
12月11日 子供が38.6℃の発熱。近所の内科を受診。インフルエンザと診断されました。行政機関のFさんにに連絡をとって母親に保険証をFAXして欲しいと頼みました。Fさんはそれを了承してくれました。 翌12日 学校に提出する治癒証明書のことで内科に連絡した際に、母親から保険証のFAXが届いているか確認したところ、母親から「その話はなかったことにしてください」と連絡があったと言われました。この頃にはもう嫌がらせでしかなくなっている母親の対応に驚きも薄くなっていました。
11月30日 子供はO中学校へ行き始めていました。中学校は給食があるので私の弁当作りの負担が減りました。中学校へ行けるのは義務教育なので当たり前のことですが、この時は何よりも嬉しかったのを覚えています。初日には玄関で写真を撮りました。 私は弁護士事務所を6カ所回っていました。中には、その客観的事実だけだとお父さんが帰していないだけと捉えることもできるのではないか。と否定的な事務所もありました。また弁護士さんとの相性もあり、中々自分が納得できる事務所が見つかりませんでした。
11月10日 以前、子供が高熱を出したときに掛かった病院から連絡がありました。内容は9月13日の受診の件で母親宅に請求書を送ったがいまだ未払いとのこと。詳しく訊くと督促状も送ったが、母親が受け取り拒否をしたという。 私は行政機関の担当者の話を思い出し、母親がお父さんの手に渡らないよう直接病院に保険証を送るといって言っていたことを思い出しました。私は電話の相手に 「保険証は届いていますか?」 と訊くととそれもまだ届いていませんと答えられました。私は子供の病院代をも払いた
11月7日 地元の教育委員会の方から区域外就学の書類が届いたと連絡ありました。協議に図り最短だと11月下旬にはO中学校に通う事ができるかもしれないとのことでした。その日の夜、子供に話すと少し高揚していました。また、友達できるかなと心配していました。 また、O警察署の生活安全課の方から子供の様子を安否する連絡がありました。うまく行けば11月下旬から中学校に通えることを伝えました。もしお母さんが無理やり連れて帰るような行動に出た場合は110番してくださいとおっしゃりました。
11月1日 以前から知人や友人、また関係機関などからも弁護士をたてるべきと助言をもらっていました。私もそれはわかっていて知り合いの弁護士さんにも相談はしていたのですが、簡単には頼めない問題がありました。 1つ目の問題は、親権者の変更というのは『単独親権』の場合のみ申し立てできるのです。今回の場合は、おそらく再婚者と子供が養子縁組をして『共同親権』になっているので、まずは親権の喪失・停止を申し立てしなければならない。さらに申し立てたとしても親権の喪失が認められるにはよほどの
10月26日 子供が、私に1つだけお願いを聞いて欲しいと言いました。それは誕生日におじいちゃんに買ってもらったハーモニカをお母さんに送ってもらうよう頼んで欲しいというものでした。メールにて頼むが、お母さんからは¨着払い¨で明日送りますとのこと。私は子供の物を一度たりとも着払いで送ったことはないので呆れました。その後、二日、三日経ってもハーモニカは送られてきませんでしたが、30日に宣言どおり¨着払い¨で届きました。
10月25日 協議の場へ向かう当日の朝に息子と口論になりました。理由は勉強すると約束した時間にスマートフォンを触るなど私の目の届かないところ(フリースクールの時間や帰ってきてから)で約束事をやっていないことを注意したことによるささいなものでした。泣いて僕は死んだ方がいいなどと言いました。私は死んだほうがいいと言うことに対して「そうやって逃げるな」と厳しく叱りました。それはこれまでで子供に対し一番強く荒い口調でした。仲介に祖父が入り、その場を収めて話し合いには出席しませんが、
10月3日 進展を期待できる連絡がありました。 これまで連絡を密にしていた行政機関のFさんから、お母さんが心境の変化で協議の場に出てくると電話連絡があったのだといいます。10月20日に400キロ離れた子供の住所地にあるセンターまで来てほしいと。 この時の私の心境は母親と再婚者に対する怒りが大きかったですが、正直なところ、子供はこちらで育てるという気持ちで固まってるとはいえ、母親と再婚者の対応と謝罪次第ではきちんと取り決めをし、子供が納得できれば帰す気持ちも僅かながらまだ持
9月29日 何も進展がないままで途方にくれました。私は最後に再婚者の実家に向かうことにしました。というのは、子供の苗字が変わっていておそらく、再婚者と養子縁組をしているだろうと考えていたからです。子供に養子縁組のことを聞いても理解していないようでした。 息子を車に待機させ、再婚者の両親の自宅を訪問。お母様が応対してくれました。玄関先で連絡が取れず困っていることを伝えると「Kちゃんが、話し合いには絶対に応じないと言っていて・・・私たちもどうしいたらいいのか。子供が一番過ごし
9月28日 10時に児童相談所で面談があるので高速を利用し、片道5時間ほどかけて車で向かいました。その車中でI警察署の方に取ってもらった調書の話になりました。お母さんは警察から事情を訊かれたときに「夏休みの宿題をやってないこと、学校へ行くのが嫌で帰ってこないのでは?」と話したらしいと伝えると、子供は少しショックを受けていました。理由はそんなことで僕がこんな行動をとったのかと思われていることでした。また、暴力について児童相談所の記録以外で何か証明できることはないのかと訊くと、
9月25日 私が学校に拘ったのは学業もありましたが、人間関係の構築ということもありました。2年生を行ってないわけですから、友達などいるわけもありません。少なからず、子供には泣いたり笑ったり、人に触れ合う中で何か感じて欲しいということもありました。 こちらの教育委員会を訪ねました。2名に対応していただいて、『区域外就学』という方法もあると教えていただくが、これも親権者の承諾が必要とのことでした。もちろん、これにも応じませんでした。 翌26日。 再び、教育委員会訪問。すべて
9月23日 子供の告白から一か月。 私は疲れ切っていました。仕事をしながらの常に子供のことを考えていました。この時点で一か月前に73キロあった体重は64キロを切っていました。状況を打開できず、イライラしていることも自分では、わかっていました。子供にも強い言葉で当たることも出てきていました。辛く怯えて暮らしていて、それから解放されたのに・・・子供に非があるわけでもないのに強く当たる。今思えば非常に愚かです。 私は、参考書のみを頼りに雲を掴むような中で勉強をしたり、友達が一人