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消滅家族の記録 4 高校時代の作文 -1967年

 片づけでこの作文を見つけ、自分自身の過去に遭遇し、青い人がリキって書いていると思った。現在の私に投影されているところもあり、読みながら苦笑い。
 現在の政治的・社会的状況もこの作文に書かれた状況とさほど変わっていない。悲しい現実!
 偶然にも、この作文を書いた季節は秋。

雑感
 サワサワと冷たい風が吹いて、深まった秋を送ってくるけれど、窓からのほの暖かい日差しは、窓越しに見える秋の光景さえなかったら、新緑の五月を感じさせる。
 この間まで紫や白の大きなラッパを華々しく幾つもつけ、その若々しいしなやかな肢体を竹の棒に得意げに絡ませていた朝顔も、今では萎びて褐色になり、かろうじて竹の支えにしがみつき、老いの醜態をさらしている。
 葉の間からニョッキリ芽を出し、ヒョロヒョロ茎がのびてローズ色の可愛らしい花をつけ、奇妙な恰好で楽しませてくれたサボテンも、すっかり衰え、スッと立つ二本の枯れた茎が、戦い終えた戦士の兜の角のように、わずかにかつての盛りを匂わせている。
 ちょっとの間に周囲の多くが変わってしまったようだ。

 けれど現実は変わりゃしない。

 近くの工場では、「体育の日」という国民の祭りの日すら無視して操業を続けている。
 それでも工員たちは鼻歌を歌いながら、ゴツゴツと筋っぽい手で鉄を打ったり、アセチレンガスで溶接をしたり、塗料を吹きつけたり、まめまめしく働く。
 この現実!

 先週、軽井沢の「レイク・ニュータウン」へ行った。会員制の別荘村と行楽施設を併設したようなところだ。
 駅からニュータウンに至る道路は、頭を垂れた稲穂をかき分け、アスファルトで一直線に伸びている。パリッとした背広の紳士を数人乗せた、真っ白なアメリカ製のスポーツカーが滑るように行く。傍らに門戸を閉ざした避暑用のモダンなコテージがチラホラ見える。
 そして、その周りの田んぼでは、埃っぽい野良着の百姓が小さな娘に運搬を手伝わせて稲を刈っている。父子の後ろ姿が妙に寂しげだ。
 なんというアンバランス! この現実!

1960年代のレイクニュータウン。店舗はあまりなかった。

 穏やかな日曜日、首相は多くの反対論を振り切って、部下の見送りの中で南ベトナムに向けて笑顔でタラップを踏んだ。
 空港の周囲では、暴徒と化した過激派の学生たちが、シュプレヒコールを繰り返し、警官隊ともみ合い、投石をし、装甲車に火を放ち、そして、このにわか作りの戦場で尊い一つの若い命が露と消えた。
 どうして暴力なんかふるうのだ?
 どうして死ぬ必要があるんだ?
 皆、憤り悲しんでいる。そして、虚しさを感じている。
 一方、インドネシアでは、政府要人たちが出迎えの高官たちと握手を交わし、「貴国の発展、貴国民の友情、両国間の協力…」と、形式を形式通りに繰り返す。
 なんというコントラスト! この現実!

 ある書物によると、平均月収五万円のサラリーマンが、定年を六十歳まで延長して、額に汗して働き続けたとしても、日本一の高額納税者の一週間分の収入にも足らないそうだ。
 なんという不平等! この現実!

ベトナム反戦 羽田事件で学生死亡 1967年10月   写真:センゴネット

 私たちは日曜祭日も働く底辺の人々を、労働組合を作ろうともしない彼らを、「結局、生存競争の落伍者ではないか」と決めつけることができるだろうか。
 あの百姓の土地が別荘用地として高く売れて、彼がホームバー付きの邸宅を建てたとしても、「成り上がり者」と蔑むことができるだろうか。
 あの暴徒化した学生たちを、「あんな者どもは、学生と呼ばれる資格がない。社会に甘えるな」と一方的に𠮟責できようか。
 
 極めて精密に仕組まれた機械文明の中では、どの人間も十分に個性を生かせるということはないのだ。各々がその部品の一つであり、それ故、主要な部分を占める者もあれば、一方取るに足らぬ付属品の役目の者もあるのだ。
 一分の隙なく組まれたその機械は一種の封建社会でもあり、それらの部品の位置が変わるのは極めて稀有なのだ。

 法的には整えられているとしても、政治は民衆の参加なくして空転を続ける。
 政府に反対する世論が湧き上がったとしても、政治について何も考えたことのない愚民に選ばれた政治家どもは、強硬に勝手な主張を押し通してしまう。
 そこで、「こんなふうに独走する政府をやっつけられるのは俺たちだけなのだ。それは暴力革命によってのみ成し遂げられるのだ」と気負った学生たちが出現する。無理からぬことのように思われる。
 しかし、革命を口にする学生たちも民衆とは結びつかない。彼らの思想は彼らの内部においてのみ純化され、イデオロギーが書物の中や、机上、口先だけで踊るだけだ。彼らは自身がそれに陶酔するだけで、民衆に結びつけようとはしない。民衆を導くべき彼らが、頭でっかちの教条狂信者に成り下がり、民衆の非難を浴びているのだ。

 何十年も前に、D.H.ロレンスが予言したように「現代は悲劇の時代」なのだ。
 人間と人間の間に流れるのは、人間愛のバラードではなく、敵意を増長する突撃ラッパの鋭い音色なのだ。
 この人間愛の不毛の時代に、それでも私たちは人間らしく生きることを要求されるのか。

 秋の色に変容する自然界の中で、醜い社会の諸情勢を凝視するのは、陰鬱というほか、言いようがない。



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