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【消滅家族の記録 9】 クリスマスとキリスト教

 私は母の晩年の数年間を一緒に過ごした。母はクリスマスが大好きで、12月になると子供のように待ちわびていた。私が日本語では歌えないクリスマスソングの定番「もろびとこぞりて」をよく覚えていて、スラスラと歌った。

町のメソジスト教会

 私たちが住んでいた田舎町には明治時代からカナダのメソジスト婦人伝道会から宣教師が派遣されてきていて、母は教会の日曜学校で讃美歌を習ったようだ。カナダ人の女性宣教師は、スカートで自転車に乗っていたので、スカートさんと呼ばれていたと言っていた。 
 私が子供の頃、近くに住む富裕な老未亡人のお屋敷に引退したカナダ人の宣教師姉妹が寄食していた。戦前から故国に帰らず布教活動に専念していたらしい。

 そんな環境に住んでいたので、うちではクリスマスは年中行事の一つだった。
 疎外されていた感じの寡黙な父がクリスマスになると張り切って、クリスマスケーキ(昔はバタークリームだった)と珈琲を買ってきて、家族全員にふるまった。ケーキを食べて珈琲が飲める日が、我が家のクリスマスだった。
 母はケーキをぱくつく子供たちをしり目に、自分はいい声の持ち主だとばかりに一人で賛美歌を歌っていた。

町のカトリック教会

 うちのすぐ近くにはカトリック教会があった。 
 敗戦の影響下にあった子供の頃、クリスマスイブには、教会のミサに行く人たちが往来し、夜通し人通りが絶えなかった。
 現在の日本のキリスト教人口は1.5%ほどだが、終戦直後は、敗戦による心の空洞を満たすためキリスト教ブームが起こり、信者人口が一時的に増加したといわれている。 
 ご近所の綺麗なおねえさんは勤め先の上司と深い関係になり、父親が激怒したので、母親とともにカトリックに入信し、のちに修道院に入ってしまった。 
 私は、家から近いという理由で、4歳から教会が運営する幼稚園に入園することになった。 
 幼稚園に入って、まず驚いたのは、園長先生がこげ茶色の僧衣を着て縄のようなベルトをし、頭髪が黄色ぽかったこと。そんな人は見たことがなかった。生まれて初めて異人種を間近に見て、私は無遠慮に凝視したものだった。 
 クリスマスは特別な日で、園児全員に袋に入ったプレゼントが配られた。袋の中にはお菓子やカードが入っていて、それらを袋から取り出しながらイエス様誕生の昂揚感を味わった。

幼稚園のクリスマス 後列2列目ほぼ中央にプレゼントの袋を掲げている男の子の前に顔を出しているのが筆者 当時は子供がうじゃうじゃ
音楽に関連した子どものクリスマスカード

 金髪の欧州人の司祭の後任に、南米出身の黒髪の神父様がやってきた。
 ある時、幼稚園が終わった後、司祭館の横にあった中庭の「ルルドの洞窟」でマリア像を眺めて一人遊びをしていると、司祭館の窓から神父様が手招きをしていた。
 玄関から司祭館に入ると、神父様がチビの私を抱き上げて膝に乗せ、マリア様のお話をして綺麗なカードや袋いっぱいのホスチア(ミサに使うお煎餅)くださった。それから、夕方の鐘をつく時刻になり、お御堂から鐘楼に上り、一緒に鐘をついた。
 その後、私は神父様にすっかりなついてしまった。私の父は煙草臭かったが、神父様は良い匂いがした。神父様は占領軍払い下げのジープを所有していて、ジープに乗せてもらい、郊外の集まりにも行ったことがある。

公教要理の勉強

 卒園して小学校に入学してからは、学校の方が忙しくなり、次第に教会とは疎遠になっていった。それが、中学生になってから、再び教会に通うことになった。 
 幼稚園の同級生のYちゃんと中学でまた同級になった。再会を喜ぶうちに、彼女がカトリック信者になるための公教要理の勉強をしていることがわかり、誘われて一緒に行くことになったのだ。毎回、戦争で父親を亡くしたという女性の先生がわかりやすく講義をしてくださったが、受験勉強が忙しくなり、これも次第に間遠になり自然消滅してしまった。 
 同じ頃、英語の時間に隣の席に座るKくんも公教要理の勉強に来ていた。やがて彼は入信してオルターボーイ(司祭の助手)をやっていた。その後、東大の哲学に進んだはずだったが、学生運動に巻き込まれたのか、まったく違う分野の人になっていた。

 こうして私のカトリックとの関わりは終わったのであった。

カトリックからプロテスタントへ

 高校に入って、1年の時はホームルームのクラスで学習していたが、2年から進路別の講座制のクラスになり、人間関係が希薄になりつつあった。そういう空気を和ませようとしたのか、英語のO先生は、様々なことを取り入れた。クリスマスの時は、歌詞を書いたガリ版刷りのクリスマスソング集を配って、皆で歌った。近隣の田園地帯に住んで日本の農村社会を研究していたハーバード大学の社会学者を連れてきて、放課後、英語オンリーの課外授業を始めたりした。

 O先生は、アメリカ人の宣教師グループが運営する、街中にある聖書センターの裏の建物で毎週開催される「英語で聖書を読む会(バイブルクラス)」の紹介もしてくれた。私はこの会に英文科志望の同級生の誘いで行くことになった。
 アメリカ人の女性宣教師と日本人の通訳者が軽井沢からきて、その時々に相応しい聖書の箇所を英語で読み、時に翻訳が入り、バイブルクラスは進行した。その教派の歌の本もあり、宣教師が歌の持つ意味を説明し、オルガンを弾きながら歌い、皆も後に続いて歌う、楽しいひと時だった。
 クリスマスには、クリスマスソングも歌った。
    宣教師がクリスマスの意義を解説してくれた。
    「イエスの誕生とは、あなたに教えを説くためにきたわけでなく、あなたの救い主としてやってきたのです。罪を犯した者たちの罪を背負い、やがて死ぬためにやってきたのです。イエスは神からのあなたへの贈り物なのです」なんて説教をしていた、そのとき、隣のキャバレー「白十字」からジングルベル~ジングルベル~♪とともにざわめきが聞こえてきた。まったくの喜劇! 参加者たちは神妙な顔をして笑いをこらえ、隣の人と顔を見合わせていた。
 
 復活祭の前に、他校からバイブルクラスに参加していた人と一緒に宣教師の家のゲストハウスに一泊してミサに参加したことがある。
 軽井沢は寒かったが、部屋は半袖で過ごせるくらい暖房がきいていた。2人でダブルベッドのシーツの間に挟まって寝た。炬燵に小さい電気ストーブや火鉢で暖を取っている、隙間風がスースーの我が家とはなんという違いなのだろう、と思いつつ眠りについた。
 翌日、教会に着くと、礼拝堂いっぱいの外国人が集まっていた。どこから湧いてきたのだろうと思ったほどだ。多分、東京からも来ていたのだろう。
 
 バイブルクラスも受験勉強で忙しくなった人たちが来なくなり、やがて私も参加しなくなった。

 日本人のキリスト教との関りは、宗教美術や音楽のよろこび、あるいは哲学・思想の勉強の範囲内のものなのかもしれない。
 苦しい時の神頼みで、戦後の混乱期には、心の空洞をキリスト教で満たそうとする人が増えてキリスト教ブームになったと書いたが、バブル崩壊以降は、心の空洞を統一教会や日本会議配下の宗教で埋めようとしてきたのだろうか。
 心の空洞が統一教会などのガラクタで埋められているとしたら、内面に成長させるべき精神世界がない。だとすれば、起死回生の可能性はなさそうだ。

 最近の私は聖書を開くこともないし、無宗教のうえ思想も哲学も持ち合わせていない。
 クリスマスには、せめてクリスマス音楽のよろこびをシェアしたい。

諸人(もろびと)こぞりて
むかえまつれ、
久しく待ちにし
主は来ませリ
主は来ませリ、
主は、主は来ませリ


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