これまでの人生について(カナダ高校留学とハンガリー医学部留学、慶應義塾大学入学、内定)ブログのまとめ
前に書いていたブログを消そうと決めたら途端に、記事をどこかに残したくなった。
日本の高校中退、カナダへの高校留学、ハンガリーへの医学部留学・中退、慶應義塾大学入学、就職活動、これからの気持ち。
意外と大切なことを書いていたから一応残しておこうと思う。
日本の高校中退、カナダへの留学
僕は、中学校まで日本の公立学校で学んで、普通に高校受験をした。
それも、県内だったら優秀な進学校だったし、地元には、たまたま周りの層の人間が勉強がっつりしてるひとも少なかったから、優秀だねえという感じがあった。
完全天狗になっていた。
実は、受験落ちに落ちて、引っかかった高校で、それでも偏差値高いからいいかみたいな感じはあった。
そして、学校始まって3か月、田舎出身で悪いことにあこがれのある僕は、呼び出されまくり
成績も下の下。特に英語ができずに、教員に英語ができないから文系も理系も進めないといわれてしまう始末・・・
そして、何を思ったか、そこで中学時代の恩師の言葉を思い出した。
「将来もし、活躍したいなら英語。留学は早いうちがいい。今すぐしろ。」
多少極端なことを言う教員だったし、授業適当だったから、あんまり好かれてはない教員だった気がする。
でも僕は好きだった。
というのも、民間企業経て、休みがほしいって理由だけで公立中学校教員になってたし、彼の子供たち3人留学してるっていうのが、なんか確固たる考えがあるんだなあと思ってたから。
そしてまあ、それ思い出して、じゃあ留学してしまおう!!って軽い気持ちで決めてしまった。
まあ、そういう縁があったといえばあったのだけど、まさか自分がこんな感じで留学してしまうとは思わなかったなあ。
そして、とりあえず学校に明日から来ません。って言って去ってみた。(結局はあとで成績表もらったり、大学受験の時に在学証明もらったりと来ることになるからかっこついてないんだけども笑)
親には激怒された。留学先探しも、エージェント探しも、何から何まで自分でやった。
その頃の記憶って意外とないんだ。がむしゃらだった。学校自分の中ではやめたつもりだったし(手続してないのに)
最初の費用少しだけで済むエージェント探して話して、行くところ見つけて、親を全力で説得した。まあ、それで、なんやかんやで留学できることになった。
この時の僕は、人生舐めまくりで
「なんだかんだどうにかなるじゃん。結局俺優秀」的な感じだった。
しかしまあ、このあとカナダの高校に入って苦しい思いをすることになり、人生変わった気がする。
高校の担任が
「なにかあったら大変だから」と
優しさもあり、日本の高校を退学ではなく休学扱いにしてもらった。
そして、なんやかんや 査証(ビザ)とかなんとかできて、12月末にカナダに行った。
入国審査の時に、英語全くわかんなくてノリで、「スタディインカナダ」を連呼していたらなんとか入国させてもらえた。
不思議なことに、今でもその時のことを鮮明に覚えている。
ゲートを出た後、ホームステイ先のホストマザーが迎えに来てくれることになっていたのに、2時間来なかったこと。話がよくわからなかったのに、何を話したかはっきり覚えていること。(のちにお話しします)日本人がいないことが正直ものすごく不安だったこと。
いろんな思いや、目にしたもの。何年も前のことなのに覚えているくらい、自分の人生を大きく変えたものだったんだなあと今考えたら思う。
そんでもって、舐めてるもんだから、余裕だろーと思って1月から入学したわけだが、
まあ、通じない。英語が通じない。ボディランゲージなんて全く役に立たない。恥ずかしさでもう動きたくない。みたいな状態になってしまった。
カナダ人には、なんだこいつみたいな目で見られるし、もう耐えきれなかった。
そこで、助けてくれたのがフランス系カナダ人のDimitriだった。
彼は、もうめっちゃアニメとゲームが好きな人。ゆえに日本好き的な人だった。
正直、今考えたらほんとに申し訳ないし、今の英語力あったら、いろんなことを話せたのになあと思うけれど、すごく当時は面倒に感じた。
なにをしたらいいかもわからない中で、Vancouverにある水族館行こうよと言ってくれて、男二人で水族館いって、日本食屋いったのが、留学生活で一番最初の遊びだった。
今となっては、楽しかったし、もう一度行きたいなあと思う。だけど、当時は「なんで男と二人でこんなデート紛いのことをせにゃならんのや」状態だった。
それからも、結構お昼ご飯とか一緒に食べていたし、時間を共にしていたんだけど、彼が異常なまでに優しい(カナダ人に対しても同様に優しい)もんだから、現地の男の子たちに気持ち悪がられてたのもあって、自分から彼と関わるのを放棄してしまった。
今でもすごく後悔してるし、申し訳なく思ってる。
いつか連絡したいと思いつつも、自分の行いが最低すぎて連絡できてない。
まあそれでも、なんやかんやで日本語を話せる中国人と日本語で基本会話するだけの毎日を送って、生活自体は安定してきた。(留学としては最悪だけど)
そんな中、転機が訪れた。
僕の後に留学してきた日本人のホストファミリーが地元の野球チームに積極的に参加している家族だった。そして、その家族が「野球を一緒にしないか」と誘ってくれたのである。
僕自身、小学校低学年から留学するまでずっと野球をそれなりに真面目にやってきた、完全なる野球人だった。そのため、その誘いはチャンスだった。
すぐに参加させてもらうことにして、練習に参加した。
言語は正直全くの様に、わからなかったから、初めはチームメイトに笑われていたし、話しかけられもしなかった。
だけど、野球のプレーだけは引けをとらなかった、というか向こうのアマチュアチームのレベルは日本の草野球にも満たなかった気はするが、その中でなかなかに目立つことができた。
びっくりするのが、カナダにいってから、全然うまくいっていなかった留学生活が、野球を始めてから一変したことだ。
いいプレイをすれば話しかけてくれるし、戦術を話し合う必要もあった。
いいプレイをすれば話しかけてくれて、しかも自分の遅いレスポンスを待っていてくれる、更にはわからないことがあればわざわざ何度も聞き直してくれた。
それからというもの、それがモチベーションになり、野球も頑張り、勉強も頑張った。
結果Grade11(高校2年)で成績優秀者のリストにのり、Grade12(高校3年)ではGraduation with Honours(成績優秀での卒業)をすることができた。
結局のところ、高校留学して思ったのは、
英語できない人にとっての留学っていうのは、英語どうこうの問題じゃなくて、生活をどう充実させるかっていうところが最大の課題なんだということ。こういう生活をしたいと思えば、それに合わせて努力をするし、もちろんそこでできる友人と英語使ってコミュニケーションもとるから、結果的に英語力もつくんだと思う。
でも、やっぱり卒業する時に思ったのは、もっともっと勇気をだして、声をかけたりコミュニケーションとればよかったなあという後悔。周りの日本人留学生の後輩とかなり仲良くしていたし(これはこれで財産だけど)、遊びに誘われた時に、全員ネイティブだとちょっと萎縮してた部分があったなと思った。
実際生活している時は、これ以上ないくらいみんなとコミュニケーションをとっていると思っていたけれど、終わってみると、まだまだだったなあと思うことがたくさんあった。
ハンガリーへの医学部留学
結果論だけど、それもあって留学継続したいと思ったのかもしれない。
まあとにかく、サクッと話したけれど、そんな留学生活の中で、大学ではハンガリーに行こうと思った。
というのも、医学を学ぶためだった。
医学部っていうのは、入るのにはなかなかに狭い門構えをしていて、日本の国立医学部は帰国子女にとってはとても苦しい受験制度だし、私大医学部は普通のサラリーマンの親からしたら(僕の家庭もこれ)、借金したって通わせられない学費だった。
カナダの医学部も同様に、まあ医学部に限らず北米の大学は異常に学費が高い。
妹が重度心身障害児ってこともあって、医学部を志していたのだけれど、諦めかけていた。そこで、話があったのがハンガリー国立大学への医学部留学。
今となっては結構流行っている東欧や中国の国立大学への医学部留学だけど、当時はまだ全然詐欺扱いされていた気がする。
でも、すごくタイミングがよかったのか、ハンガリー医学部留学のエージェントを通して留学した1期生が卒業して、日本の国家試験に通った時に僕は入学できた。
まあ諸々タイミングよかったからハンガリー留学を決意した。
正直な話をすると、タイミングもあったはあったけど、結局のところ"医学部"への憧れは正直あったし、帰国子女受験で帰国していい大学に入れなかったらどうしようという不安から逃げたしたのも事実としてある。
というのも、やめた日本の高校の同級生たちは、旧帝にも結構行っていたし、ほとんどが早慶に通っている優秀な人が多かった。MARCHレベルで、ちょっと残念みたいな雰囲気があった。それを気にしてしまった。
これが一番よくなかったなあと今になって思っている。
プライドはないと辛いけど、変に持たない方が確実に成長できる。
今となっては言えることだけど、当時はプライドの塊でたくさん迷惑をかけたと思う。
話を戻して、初めの1年はハンガリーの首都ブダペストで過ごした。
そこで、すごく素敵な出会いがあった。
僕は"帰国子女"という肩書きをひっさげて渡洪したわけだが、そこまでできもしない英語を隠し、同期の皆にできるフリをしていた。そんでまあ、「優秀ですよ」みたいなスタンスをとっていた。
当然だけど、まあそんなやつ好かれる訳もなく、結構嫌われた気がする。
だけど、2人だけ関わってくれる人たちがいた。
1人はY君。母方の実家のある香川県出身ということで勝手に親近感をよせてたのもあり、会話をはじめた。すごく面倒見のいい人だった。年齢的にはひとつ上。
もう1人はHさん。北九州出身の、結構人間味溢れた人。野球をやっていたっていうので初めはかわいがってもらえたのかなって思う。年齢はなんと9歳差。この人は、今でもかわいがってくれている。本当に、僕の人生を変えてくれた人だと思っている。
この2人と結構一緒にいる時間が長かった訳だが、一緒に自習室(スタディルームなるものがある)で勉強をしていることが生活の1部になっていた。
そして、僕の中ですごく大きなことがおきた。
簡単にいうと彼らに、関わってはもらえるが、なんというか軽くかわされる。いわゆる"干されている"状態になった。
正直、すごく寂しかった。他の居場所がなかった。
そこで初めて僕は、Hさんにどうしてそうなったかを聞いた。
僕にとってのハンガリー留学は、医学の知識はもちろんだが、なにより人間的に成長させてもらえたかけがえのないものだと思っている。
"干された"状態を感じる様になったのは、HさんとY君がそれなりに普通に接してくれる分、言葉が届かない感じがリアルだったからだと思う。
そして、Hさんにその理由を半泣きで聞いた。今となっては思うのだが、正直彼らのことが僕は大好きだったのだろう。プライドの塊というのは、裏返せば誰かに認めてもらいたいという意思が強いということだと気づいた。
Hさんは
「お前、聞いたことに適当に答えるから」
と言った。
僕は、そんなことをないと本気で思って本気で反論したが、具体的に言われて気が付いた。
例えば、英語について
「〜って使わないフレーズなの?」と問われた時に、「普通は使いませんよ」などと確信を持たずに答えていた。
その後、僕がいない場で、Hさんがどこか、映画や実生活で、そのフレーズを聞くことになった。結果として、僕の言葉の説得力は徐々に欠落していったのだと思う。
さらに
「わからないことを分からないと言えないプライドの高さがうざい」
とストレートに言われた。
これは今になってようやく少しずつできる様になってきたのだが
わかっていないのに適当に頷いたり、分からないことを知ったかぶるそぶりをしたりとそういったことをしない様にすることはすごく大切なスキルだと思う。
わからないことを分かると言ってしまえば、それは自分の中で消化しきれずに、結局分からずじまいで人生を進んでいくことになる。さらにいえば、それを「わかる」と言ってしまったことで、会話が"わかった前提"で進んでいくことになり、さらに分からなくなる。
まあ、結局のところ人間というものは、素直な人が好きなのであると思う。
人生多かれ少なかれ、自分よりも長く生きている人というのは、その人が今までわかりにくかったところや困難だったところを覚えており、それに基づいて話をする。だから、きっと分からないだろうと思って聞いてもらえる、つまりは理解を深めるチャンスを与えてくれるわけだ。そして、"素直"かどうかで、チャンスをものにできるか否かが決まるのだろう。
僕はまだ当時18か19歳だったこともあり、自分のどこが間違っているのかという恥ずかしい質問ができたが、それすらも年齢を重ねるごとにできない質問になっていくのだろう。
そして、関係改善後ののちに言われたのが、
「お前は、なかなか直らないけれど、直そうとしているのがわかる。だから、時々かわいい」
その時、努力を見ていてくれているんだ。じゃあ、絶対に変わって、更に認められたい。そう思った。
つまりは、すごくいい出会いが1年目にしてあったわけだ。
そして、勉強に励んだ。お酒、タバコ、ギャンブルとかの遊びも覚えた。
1年目は、Hさんの存在もあり、すごく充実していた。
しかし2年目から、Hさんと大学が離れ離れになることとなる。
今思えば、そしてHさんも冗談まじりに言うのだが、Hさんと同じ大学へ進学しておけば、帰国せず医学をやり続けていたのではないかと思う。
ハンガリー2年目になって、僕はペーチ(Pecs)という都市へ引っ越して、そこの大学で医学を勉強していた。
そこで、当時6年生だった先輩は今日本で無事医師となり働いていて、今でも仲良くさせて頂いている。
今現在6年生で、夏には卒業し、日本で医師国家試験の受験をする予定の先輩もいる。
僕のことを大切にしてくださった先輩方が成功していることを心から嬉しいと思う。
しかしながら、僕は確実に成功できなかった側の人間の1人と言えよう。
ペーチへ行って初めの前期はうまくいった。といっても、今になって考えてみればギリギリで単位を取れていただけで余裕なんて全くないはずだった。
でも、相変わらずの勘違い野郎だったせいで、余裕綽々としていた。
結果、後期で単位を落とした。夏休みまでサマーコースを入れなくてはならない状態になった。
そこからというものかなり落ち込んで、ようやく自分の実力というものを理解したような気がする。
留学生活においては、多少の勘違いで成功することもあるからどうかと思うが、長い人生を考えたら、この経験は必要なことだったと思うし、よかったと思っている。
かなり落ち込んだ話を少し詳しくすると、鬱みたいになった。
先輩から抗うつ効果のある薬をもらっていたし、自分でもハーブなりなんなりいろいろ試した。
それに関しては、日本に帰ってくるまでなかなかよくならなかった。でも、ここまで追い込まれるのもこれからの人生あまりないだろうからよかった気もする。
というか、今になってしっかり、何がどうしてこうなった、というような考察ができているから良い経験と言えよう。
勉強に関しても、いわゆるスマートドラッグもいくつも試した。やはり日本にいるよりはそもそも手に入りやすいし、実際に使っている人もたくさんいた。
即効性のあるものは、やはり結構効いたけど、その分反動で沈むのがどうしても慣れなくてやめた。2ヶ月くらい摂り続けて効果がで始めるものは、自分ではいまいちわからなかったが、結果は出たからやはり効くのかもしれない。
ともかく、ペーチ一年目は勉強面で失敗をたくさんしたのは事実だけど、今となっては、これから大学に入って勉強をやり直す上ではいい経験だったと思う。
問題は次のペーチでの2年目だった。人間関係で多少もめた。勉強も結果を残せなかったし、生活面も失敗をした1年になった。
3つの気づき
ところで、これから最後の1年のお話をしようと思うが、この1年を一言で表すなら、人間関係を拗らせ、勉強よりなにより世渡りを覚えた年だと思う。そして、3つ大きな気づきを得た。
サマーコースを取らなくてはならかった僕は、唯一の長期休みである夏休みを返上し、ペーチに残っていた。
そこで出会うのが、一つ下の期で入学しくる予定のKくん。彼は入学前のPreparation courseという、大学側から「入学させてやるけど、これ入学前にいけよ」っていう夏期講習のようなものに通っていた。
彼はノリのいい好青年で、まだ18歳で遊びも知らないような子だった。
夏は休みだからというのもあり、日本人が少ない時期で、それも要因の一つとして、よく彼と2人で遊んだ。
18からお酒を飲めるハンガリーだったこともあり、飲みにも行ったし、ゲームを一緒にした。それなりに楽しい夏休みだったと思う。
僕が後に気づかされて、驚愕したのは、僕自身は彼と仲が良いと思っていたのだが、彼はどうやら嫌嫌僕と付き合っていたということ。
僕は、海外で高校生活を送ったからなのか、そもそも人と関わるのが好きで基本的には抵抗なくすぐに仲良くなるたちだからなのか、嫌なことがあれば普通に"嫌"と言える。
しかしながら、そういう人ばかりではないらしい。というか、この一件で学んだ。
これが一つ目の気づき。「捉え方の差」
そして、2つ目は「言葉の裏側」
人間は、特に日本人というものは言葉の裏側に存在する意味というものを重視していると思う。
たとえば、僕たちが他人の家に行って言われる「自分の家だと思って、好きにしていいよ」という言葉をそのままの意味で受け取り、好き放題する人は少ないと思うし、好き放題されて全く気に触らないという人も少ないだろう。
つまりは、口で人が発する言葉というのは、考えようによっては本来意味していることとは程遠いということである。
個人的には、わざわざ口にするということは、裏側の意味を相手に伝えようとしているということだと思っている。
「自分の家だと思って、好きにしていいよ」という言葉を発する理由は
"ゆっくりしてほしい"という想い以上に
"自分の家ではないから、リラックスしてもいいけどほどほどにしてくださいね"という想いの上で釘をさしているのではないだろうか。
僕は、ハンガリーでこれをよく考えさせられた。
医学部というのはそもそも特殊な世界だとは思うが、ハンガリーのそれは特に異質なのものだと思う。
年齢層も、本当にまちまちで、学年と年齢が全く一致しない。
例えば、僕の同期には30歳の方がいらっしゃったし、1期上で留年されて同級生となる方は80手前という方もいらっしゃった。(最近は、高卒現役でくる人が多いのだが)
その状況で、よく聞いた言葉が
「ここは海外だから年齢とか関係ないでしょ」
僕はこの言葉にずっと疑念を抱いていた。
というのも、海外だからというところに納得がいかないのである。
僕が長期間過ごしたことのある、カナダでもハンガリーでも年長者を敬う気持ちが存在していたし、それに合わせて敬語も存在すると認識していたからだ。
さらに言えば、海外に出たところで、日本人的な意識が薄れることはよっぽどの出来事や滞在年数が長くなければ、ほぼないと言っていいだろう。もしあれば、相当のアイデンティティの欠如である。
なんにせよ、日本人のいうところの
「海外だから関係ない」というのは、
"海外だけれども、年齢関係あるよ"という意味である。
それを象徴する出来事として、
僕が1期下の後輩と出会った際、彼は「ほんと先輩なので、普通にそれで接してください」という趣旨の発言をしていた。
しかしながら、彼と多少もめた際に、
「年長者がいるまえで、そういう態度はない」とまあ愚かなことにこのような発言をしていた。
正直ほんとうに彼は愚か者だとは思うが、それを意識できなかった時点で僕が未熟であったのだと思う。
とはいえ、それを学ばせてもらえたのはよかったのだと思う。
ともかく、言葉というものを鵜呑みしていては、相手の気持ちに気づくことも容易ではなくなってくるから、言葉は把握しておいてその上で相手をよく見るということの重要性に気づかされた。
なかなかに当時は、自分の中で消化しきれないところがあったが、今はその出会いと気づきの機会を本当に感謝している。
さらに、その中で、これを当時の僕にわかりやすく説教をしてくれる素敵な先輩がいたのも事実で、今でも彼と親交があるのは大変な財産である。
ハンガリーへの留学生活では大きな3つの気づきを得た。
その中でも、一番最後に気づいたことが
"優秀な人多くを語らず"ということである。
ハンガリーへ医学を学びに留学している日本人は意外にも結構な数がいる。そして、大多数の日本人がお互いを認識しあう程度には関わりを持っていると思っている。
もちろん、先輩後輩という関係であったり、友人という関係であったりするわけだが、医学を学んでいる人以外にも芸術を学んでいる人であったり、現地で仕事をしている人であったりと、バラエティに富んだ人がたくさんいる。
僕はそれらの多種多様な人間が集まる空間は、ある程度日本人が日本人に対して与える影響や対話を持つと考えている。つまり、日本のコミュニティとして認識すべきであり、結果として、日本の縮図とまでいえると思っている。
そこでわかったのは、優秀な人(学力に限らず)は多くを語らないということだ。
社交的ではあるが、過度な関わりは避けるし、よほど重要な場面(物事が収束しないような状況など)でなければ、自分の意見というものを発しない。
日本に帰ってきてよくわかるのが、優秀な人というのは、自分自身の実力に納得していないらしい。
夏に帰ってきてからお話させていただいた、現在東京大学の4年で教育関連のビジネスをしている人も、早稲田大学大学院で常に成績上位かつ国際学会に積極的に参加している人も、日本全国や海外に出店している大手焼肉屋チェーンの創業者も、病院経営をしており本を執筆されている方も、口を揃えて
「自分はまだまだだから、正直人のことをどうこう言っている暇がない」といった。
本当にそうだなあと思う。彼らは同じことを言ったが、だからといって面倒見が悪いわけではない、人とあって話す時間を作るためにさらに時間を削っているという。
僕がハンガリーの大学に在籍していた時に、深い関係にならなかった同期の人がいる。
彼は、慶應義塾大学を卒業したあと、外資の投資銀行で働き、その貯蓄を持って医師を志している。
春からは、彼の後輩になると考えるとなんだか面白い気もする。
まあ、それはさておき、
入学が決まった時に、彼に連絡をしたのだが、彼は親身になって話をしてくれた。
それは、大学の後輩という縦の繋がりがきっかけとなり、彼の時間を奪うことができたからだと思う。
その際に、彼は
「ハンガリーであまり君と関わらなかったのは、自分はまだまだだから、正直人のことをどうこう言っている暇がないと思っていたからだ。」と言った。
言われてみれば、僕とハンガリーで長い時間を共にした友人は親しい友人ではあるが、医学を学ぶ場というところではお世辞にも優秀とは言えなかった。
よくして頂いた先輩方や同期のHさんなども親しくしていたが、常日頃一緒にいるというわけではなく、時間があえばということだった。
つまりは、優秀な人とは多くを語らず、自分の決めたことをしっかりと遂行する能力を備えているのだと思う。
僕もそうなっていきたい。
帰国後
僕がハンガリーの大学をやめてから1年と少しがたった。
新しい大学に入ってからは半年弱かな。
実際、18歳に混ざって大学行くのはなかなか辛い時もある。だけど僕は今がすごく楽しい。
ハンガリーにいた時は、修行...というかカイジの地下帝国的な労働の義務みたいな感じで勉強していたし、きっとそういう気持ちだからせっかく医学を学ぶ機会があったのにつらい、きついとマイナス方向の感情しか湧き出なかった。
それもまあ18歳でハンガリー医学部へ行く難しさなのかもしれない。
とはいえ、同じように現役でハンガリーの大学へ進学してしっかり勉強して進級できている人がたくさんいるのだからすごいと思う。
とにかく、自分語りする前に、これからハンガリーへ行く現役生は結構ほんとに自分の中である程度決心して頑張って欲しい。
僕みたいに、お試しくらいでやってみようという人は、本気でお試しで医者やるから医学部は修行と思わないと辛すぎる気がする。これから、同級生たちが日本で楽しくすごしてる姿をきっとSNSやら何やらで見かけることになるし、成人式も逃すかも知れない。お試しならお試しで構わないけれど、せっかく医学を学べるんだから頑張らないともったいない。
今慶應で学べていることも幸せだし、学生生活は楽しいけれど、医学をもう一度学んでみたいという気持ちがないっていうのは嘘なくらいにちょっと後悔もある。
今、英語教えたり特別入試の指導したりで食いっぱぐれることはなさそうだし、日本語教育・文化政策・デザインそういった勉強ができることは本当に幸せだけれど、ちょっと頑張ればそのくらいの環境はすぐに手に入れられる。
医学を学ぶ機会は(独学じゃなくてね)もうこない。そう思うと結構後悔が押し寄せてくる。
いつかやり直したいな〜なんてね笑
とにかく新学期、新しい目標に向けて頑張って欲しい。
素敵な医師への一歩めを。
最後の記事、これからについて
帰国して、3年ちょいが過ぎた。
更新なんてろくにしてなかったけど、ここ数年は日本で「「普通」」に生活してた。別にサークルでウェーイって感じにもしてないけど、学生っぽく麻雀とか恋愛とか飲みとか美味しいもの食べたりとか親に甘えたりとか、いろいろした。
でもまあ、せっかくハンガリーから帰ってきて、親に迷惑をかけて、このままじゃだめだ、というか。なんで帰ってきたんだと思い直して、将来を本気で考えた。
そんな感じで、3年生の夏が過ぎて、就職先が決まった。
就職活動を3月から始めて半年くらい。なんとか乗り越えられた気がする。
コンサルとしてまずは頑張ることになった。
就職活動の中でも、ハンガリーの経験を話すことは本当に多かった。
人の支えになりたいっていう気持ちは本当にあって、医師という「人」の支えではない方法で何ができるかなと考えたときに、「企業」を支えることって一つの手段だなと思った。
あとは、帰国したときは、医療機器とか福祉補装具の製造に興味を持っていたけれど、それが広がってその資材に興味を持って、それがまた広がって資材を取り巻く環境とか、インフラに関連する環境とかに興味を持った。そのあとまーた広がって、インフラ関連の政治に興味を持って、それが国際政治につながって。
こんなに興味範囲を広げられるのは、医学部では絶対に有り得なかったから、すごく良くも悪くも(まあ学部レベルでこんだけ変えてりゃ薄いよね。)日本に帰国して良かったと思う。
まあ研究だけじゃなくて、いろんな人たち(良くも悪くも)とたくさん話を本気でする機会は日本にはゴロゴロあって、それを受けられたのは本当に幸せだったと思う。
それでまあ前述したのを含めたいろんな理由で、経営・戦略コンサルの道に新卒で進もうと思った。
一丁前に、企業の総合内科!とかいう気持ちではいるけど、今後プロフェッショナルになるという意味では、医師に負けず劣らず勉強し続けないといけないなと思っている。
慶應だからどうのこうのっていうのが一切ない、というかむしろ慶應なんて、という環境であるコンサルとか、IBDとか(一切受けてないけど)っていうのは本当に甘えないで頑張れる環境だと思う。
別に俺の人生が誰かのモデルケースになるのを望んでいるわけではないけれど、日本で医学部進学を諦めて(or強い意志があって)ハンガリーに行って、それでもやっぱりいろんな理由で辞めたい人の参考になったらいいなとは思う。
ハンガリーで本当に俺のことを大切にしてくれた先輩方に連絡した時、冗談めかして「なんだその仕事笑」とか言われたけど、ちゃんと「分野は違うけど、しっかりと進んでいて、すごいと思う。」と言われてすごく照れ臭く、嬉しかった。
俺の話はたいしたことないけれど、社会人としてのルートが少し決まった人間の一人としてハンガリーへ医学部留学したい人に聞きたい。
なんで医師になりたいんだろう。なんで医学を学びたいんだろう。誰のためのどんな人でいたいんだろう。誰に認めて欲しいんだろう。固執していないか。家族・友人・社会に対して誇れるか。逃げていないか。
僕は、医師がかっこいいと正直思った。障害児の妹を理由に医師を目指すべきだと正当化した。周りの全員にマウントをとりたいと思ってしまった。入学してから、医師以外はダメだと思って固執してしまった。誰にも自分の努力や意志を誇れなかった。
そして、ずっと逃げていた。
カナダに行ったことも、ハンガリーに行ったことも、慶應に入ったことも全てを含めて逃げていた。周りに肯定して欲しかった。
逃げた結果、というか、逃げ続けた結果、それを見透かしてくれていた素敵な人だけが周りに残った。
確かに、いわゆる人気者にはなれないけれど、自分のことを肯定してくれる or 心から本気で否定してくれる or 理解できなければ喧嘩してくれる、そんな人たちが周りに残った。
すごく幸せな人生だと思う。
逃げてもいい。だけど、逃げるなら自分の弱さに気がつくまで逃げ切ろう。俺のように。そうしたら、素直になれる。誰よりも子供であったことを理解して0からスタートしなおせる。そう考えている。
どんな人もすごくない。何かに「本気で頑張れている」ことが格好いいだけだ。
逃げてもいい。逃げたいなら、そこは居場所じゃない。
俺はやっと、わくわくする未来を想像できるようになった。
長々と書いたけれど、少しでも誰かの心に刺さればいいな。
ハンガリーの医学部にいるみんな。本気で応援しています。
進学を悩んでいるみんな。思っている以上に世界は広い。ハンガリーにいって関わる人や知識は財産。日本にい続けて関わる人や知識も財産。どちらが上位ということはない。だからこそ、本気で悩んで、選択して、後悔しよう。本気で応援しています。
全員が自分自身に、周囲の人に、社会に、誇れるように。