ルーティーンの罠
ルーティーン
それは一定のリズムで刻まれる決まりきった行動や性質
この意味は自分で作った。
時間を有効的に使うために、一定の生活リズムを自分の中で作るために、調子を一定に整えるために。
そんな意味合いでルーティーンは近頃重宝されているように感じる。
ルーティーンの先駆けは僕の中ではイチローさん
メジャーリーガー時代に朝ごはんは必ずカレーというルーティーン。
雨の日も晴れの日も、春夏秋冬、曜日関わらずカレーだとのこと。
栄養素的にも、エネルギー的にも申し分ないとの医学的な根拠もあるらしい。調子を崩さず、常に結果を出し続けるために。という彼の考えだ。
他にも彼は絶対にヘッドスライディングをしない、全力疾走はほとんどしない。などホントか嘘かわからないが逸話がある。
プロだから一瞬に力を込めるのではなく、常に成果を残せることを優先するという意味のものである。
そうルーティーンとは、常に変化する体や精神のコンディションをいつもどおりにする。いつもどおりのプレーをするためのおまじないだ。
日本でブームになったのはラグビーの五郎丸。キックの前のポーズが愛らしく印象的で、皆があのポーズを真似した。(あのコケティッシュなポーズからは想像できないほど、五郎丸選手が結構荒々しい人だと知ってちょっと驚いたのはまた別の話)
プロとは望まれる高い成果を常に出し続けること。
プロである以上期待を超えなくとも、期待を下回らないことが求められる。
ルーティーンこそプロがプロである所以である。と僕は信じていた。
社会人4年目まで結構この理論を大事に生きてきたわけです。朝起きてから寝るまでいかにイレギュラーな状態をなくすか。常に想定の範囲内で物事が片付き、いつもどおりの体調で仕事をするか。予定以外のことは極力避けた。
その結果か、僕という人間は調子に波のない安定した人間になった。
毎朝同じ時間に起き、同じものを食べ、同じ服を着る。お暗示時間の電車に乗り、同じ時間に会社につく。同じ時間から朝礼が始まり、同じ時間に休憩し、退社。同じ時間電車に揺られ、同じ時間にごはん、風呂、ベッド。眠気を感じる時間もほぼ一緒。
頭を使わなくていい。悩む必要もない。流れるように時間がたった。
しかし、どうだか代わり映えのしない毎日というのは、どうにも僕望んでいた世界とは少し違っていたのだ。
イチロー選手と違い、僕は一流と言うには程遠い。安定した成果を出したところでよくて中の下。誰の目にも止まらない。むしろ好調不調が綺麗に分かれるくらいのほうがやかましくて目につく。
何よりも、生活にあるべきはずの刺激がない。ワクワクがない。想定外がない。明日の顔も見たくないような最低なついてない日もないのだが、思わずガッツポーズを取りたくなる最高についている日だってない。
だから””成長”なんて殆どなかったのだと思う。
”成長”は常に自分をアップデートし続けることであり、現状維持ではない。
僕はプロであるまえに未熟だった。
社会人となり、お客様と接する限りはプロであるべきであり、お客様からもそれを望まれている。を、調子が変わらない状態、と誤読して体に刻み込んだゆえこんな事になってしまったのだ。
イチローさんや五郎丸さんに関しては、その技術に関してはすでに一級品ゆえ、基本に忠実であり自分のコンディションを整えることがライバルとの差をつける重要な要素であるとなっていたのだ。
未熟な僕はそもそも100%のパフォーマンスで彼らの足元にも届いていないのだ。ライバルが調子を崩していたとしても、その低いポテンシャルでは敵わない。
いまだからいえる。
調子は乱高下させるくらいでいい。その浮き沈みの中で自分を高める機会を体験をつかめばいい。ルーティーン化が良しとされる世の風潮ですが、僕はあえてルーティーンへの警鐘を鳴らす。
過去の行動の結果が今の成果につながる。
今の成果が芳しくないのであれば、それは過去の行動がよくなかったのだ。
ルーティーン化し、単純化した生活がいまの成果を作り出しているのだったら、それはルーティーンが良くなかったのだと改めなければならない。
ルーティーン信者だった僕はこうして、いきあたりばったり人間へ変化した。