無自覚に何もなかったにすり替えてない?
大したことがない=何もなかったにすり替わる
先日、仲間と近況報告をしてる中で、「自分は報告できるような進捗は何もなかった」という表現をされた方がいました。
特に自分よりもすごい(と感じる)経験をした人や、タイミング的に動いている人と一緒だと、比較してそう思うのは仕方ないことなのかもしれません。
しかしよくよくその方の話を聞いてみると、
その期間の中で色んな経験をされたからこそ、これまで見えなかった問題や課題が浮き彫りになり、今までの自分のパターンで思う方向・スピードでは動くことができなくて、結果 ”もやもや” した。という状態でした。
何もなかった、進んでいないわけではなく、(自分が期待した程、人と比べて)大したことがなかった=何もなかったと評価しているだけでした。
全ての出来事が優劣なく、全体の中の一コマ
でも私達は、四六時中、非日常的なイベントや特別な場所に参加できるわけではなく、そればかりだと、本当に大切な部分が抜け落ちてしまうと思います。
新しく芽の出た視点で、日常の一つひとつの経験を改めて見ることで、自分にとって本当に大切なものを見つけることができるのだと思います。
だから、全体を通してみると、何かを体験した後に ”モヤモヤ” している時、それはとても大事な時間で、振り返ってみると、その ”モヤモヤ” も含めた1コマ1コマのお陰で、進んだ・立ち止まれた・振り返れた・方向転換できたということに氣づくことができます。
今この瞬間を一つずつ認識する
だからこそ、できた・できなかった、正解・不正解という二元性ではなく、今この瞬間を一つずつ認識していくこと。
結果で判断するのではなく、その結果すらも1コマの認識。
衝撃的、感情的な渦中にいる時も大切にしながら、自然と客観的な視点に立てた時、「あ〜、今悲しいんだ〜」「へぇ〜そこからそんな風に発展していくんだ〜」と、身体・体感とともに「自分」を捉えられることに氣づきます。
そんな経験を重ねていくと、ただ生きてて生活してる日常でも、身体は常にその中の最適を選択し続け、働いていることに氣づくことができます。