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常識は塗り替えられた非常識

常識を謳う人、求める人、従う人がいる。
それ自体は別に構わないと思うのですが、この考え方がない人がいる。

アルベルト・アインシュタインはこのように言っている。
「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションだ」

いわゆる世の中において、何が正しくて何が正しくないという判断基準、
つまり、常識はその人が詰め込まれた情報や知識に依存するという意味だ。

例えば、「赤信号は止まらなければならない」という常識があって、
従うも従わないも個人の自由だし、
単に危険性が高まるので、多数の人が従っているという、
「大方多数派のスタンダード」が、私は常識だと考えています。

もしかすると、これも単なる偏見の可能性すらあります。

また、もう一つの考え方としては、タイトルにある、
「常識は塗り替えられた非常識である」という考え方です。

常識が変わる時、置き換わる考え方は元々非常識であり、
その中では、非常識を常識に変えようとする人が存在し、
意図的ないし、運良く流れがきて非常識が変化する事がある。

結果的に、世の中は常に常識といったものが変化しており、
意図的に変えようと、覆されようとしていて、
誰かがあなたやあなたの周りの考え方を変えようとしている。
その非連続的な結果が、新たな常識をつくろうとしている。

その他の視点として、「常識の変革が起こるのは単なる世代交代」
とも考えられ、単純にマスを新たな考え方が奪ったからという考え方も
一方であると言える。これは政治などで考えやすい考え方だと思います。

では、「常識を守ろう」「常識のある行動をしなさい」
という言葉に何の意味があるのでしょうか。少なくとも、
私には「多数派に乗っておくと安全だよ」という言葉にしか聞こえません。

大事なのは、一定の考え方がなぜマスを奪っているのか、
そこには大衆心理としてどういう考え方があるのか、
また、歴史的な背景として何があるのか、対抗する考え方として
何が存在し、なぜその考え方がマスを奪えていないのか、
「なぜだろう?」という知的好奇心から自分の頭で考える事だと思います。

その仮説は例え間違えていてもよくて、
ふとした疑問を持つことが何より重要で、
そこに辿り着くために、「なぜだろう?」という
簡単な思考回路を働かすだけで辿り着ける事ができます。

そう捉えると、世の中には「意志や意図」がこれでもかというぐらい存在し、
常識を塗り替えようと奮闘している方も多く存在する事も理解でき、
もしかすると、あなた自身が常識を変える一助になり得るかもしれません。

それは選挙による投票であり、ビジネスであり、その他何にでも言えます。

私は、「〜が常識だ、従った方がいい」という考えには、
拒絶反応を示す事が多く、思考回路が止まった上で従順すぎる事は、
本当に勿体無い事だと考えています。

では、まず何からすべきか?
それは、自分がふと疑問に思う事に「なぜだろう?」と疑問を持つ所から、
全てはスタートするのではないでしょうか。


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