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郷に入っては郷に従え
昨年、ひょんなご縁から都市部から郊外へと夫の仕事の関係で移住した。
移住先は都市部から車で一時間ほどで、都市部へ通勤している人たちも多いいので全く価値観が違うと思いにくい距離感。
〇十年前のまだ成長意欲が旺盛な頃に、都市部の雑多なところに疲れて来ていた隠れ場所周辺。
全く知らない訳でもなく、知人がいないわけでもない。
ただ、以前から気にしていた問題点に今直面している。
私が今の移住先に遊びに来なくなった理由。
それは品位にかける人たちに出くわす回数が増えた事。
自分本位な言動にゆっくりするどころかストレスが溜ってしまう為。
それは、地元の先住の人たちでもあり、移住者でもあり、以前の私のように遊びに来た人たちでもあるように見える。
幸い、こちらでの私の知人にそういうがさつな人はいないのだけれど、
どこへ行ってもそういう粗雑な人たちに囲まれるため、最近は精神的に参ってしまった。
精神的に滅入り始めてしばらくして、
①彼らについて自分の中で言語化まで出来ておらず心中の整理がついていない。
②今後、自分がどうなりたい・どうありたいかの意思が明らかにできていない。
上記2点が原因と気がついた。
人は経験値が上がるほどそこから学びを得て成長していく。
それが文字通りであれば年配者ほど洗練されているはずだが、人の成長には個体差での違いが生じる。
しかし、老いも若きも、高い低いも、みんな一生懸命生きてきたのは同じだと思う。
ただ、そこで出会ったモノ・感じたコト・思考回路までバラバラなのだ。
一言「幼稚」でも済むのだろうけど、それではその「幼稚」な人と同レベルになるようで、私はモヤモヤしたものが胸に残る。
それよりか、他人に点数をつけるより自分の培ってきた美点を再認識するきっかけにしてしまう方が健全な気がしている。
それを踏まえて、自分はどうしたいか・どうなりたいかだと思う。
被害を被れば被るほど、人間の自己防衛本能で脳裏に刻まれて修復し難く思えてくる。
実行するのは傷つくほどに難しく感じるけれど、不思議なことに外の縁は脳裏に浮かべる回数を減らすことで縁は自然と疎遠もしくは消滅していく。
トラウマや怒りを成長のための燃料にして自分を鼓舞することもできる。
そうして成長してより良いものを手にして満たされた時、激しく攻撃してきて足を引っ張り深く傷つけた相手が、以前より小さく見えて気にも留まらなくなるだろう。
人はだれかを恨みながらでも、また傷ついたことや失敗したことで周りから今後の可能性を否定されたとしても、諦めなければ幸せになれる。
アランの幸福論に「だれでも幸せになる権利がある」とある。
「郷に入っては郷に従え」を乱用して危害を与えるマナーやモラル違反も正当化してしまう風潮が国内にはあるが、個人がどう生きるかまで縛り付けることはできないのではないだろうか。
私は私の人生で見つけてきた素敵なモノを自分の軸に据えて、これからの自分自身とつながるご縁を育めば良いのではないだろうか。