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未次元vol.20/海

月曜の夜中、全然眠れなくなり、「あれ?なんで眠れないの??というか、どうして、何も無いのに(何も無いから、、、?)こんな悩んでるの」と思って、「あ!疲れてるんだ。なるほど海行こう」と思って逗子へ行ってきました。

私は「ノクティルーカ」という曲が好きで兼ねてから夜の海へ行きたい、、、という欲望を日々積もらせていた。先日Orangestarさんのライブがあったこともあいまって、もう向かうしかないという決死の思い。

また、電車がとても好き。
というのも、必ず乗っていれば何処かに運ばれていくところ、これは少し受動的すぎる姿勢とも言えるけど、一種母胎のような安心感、そうして車内では大抵個々人の好きなことをできるという点がとても心地よい。
現実の何かが決定的に変わるわけではないのだけれど、心象風景は少し塗り替えられていく。心象風景が変われば生き方が変わる。それは結果的に世界を変えているとも言えるのかも、、、。
そういうところが好きだ。

講義が終わった後、詩の挿絵を仕上げ、日没時間に合わせ西武池袋線に乗りこむと、池袋で乗り換え、湘南新宿ラインで逗子へ向かってゆく。



 運の良いことにすぐに座ることができ、そこからは少しずつ森林が多くなっていく車窓を眺めながら終電まで揺られていればいいだけだった。

 座るとすぐに雑記帳を開いて、新作の詩を書くために、ばあーと雑文を書き込んでいく。私は気持ちの整理をするために雑文を書き殴る習慣がある。誰にも見せることを想定していないノートなので、予定表から、創作、落書き等々、本当に雑多に使う。
 雑文はただただ、思いついたことを次々に書き殴っていく仕様になっていて、それをやると不思議と絡まっていた紐が解けていくような気持ちになる。形而上の悩みを言葉によって選び形づけていく作業だから、揺れている自分の輪郭を固められる、自分自身で自分を選び取る。不思議と心が落ち着くし、それが割と詩につながったりする。

 今もノートを電車の中でかいているのだけれど、私は高校生の頃から、電車で何か考え事をしたり、書き物をすることが多かった。単純に家が遠いので、電車の中で作業しない手はない、というのもあったのだけど、人が沢山いて、でもそこに私の個人の世界はちゃんとあってという状況が、共生と単独の姿勢を少し感じさせる。
一方で都会的な無干渉の空間だから、この個人性は成り立っている視点もあるのかな、、、。無干渉が前提にあるから、私が保たれていて、その一方で無干渉であるからこそ自己の輪郭が曖昧になっている。単独者の在り方は例外者という事でもあると「生けるキルケゴール」の中で書いてあったけど、ということは、この無干渉の中で逸脱を選び取っていない(もしくはもっと不可抗力的に)と、個人性は成り立たない、ということになるのかな。

考えているとどこまでもいけてしまう、、、。

そんなこんなで一本の詩が完成し終わったところで、横浜辺りに着いた。詩作が深まればその分、すっきりもする。なんか出来れば安心はできる。輪郭を掴む。
あとは鎌倉の風景を感じていれば良いだけだ。夕暮れが広がっていて、海の近く特有の日差しへ変わっていく景色にテンションが上がる。


逗子へ着くと、まずは夕飯を食べれるところを探した。前回、小旅行へ行った時、あまりにも無計画に出てしまったから、夕飯を食べ損ね後悔したのだ。
せっかくなのだし、その土地のものを食べたい。海鮮が食べたかったがどこも予約でいっぱいで結局ダメだった。
日本料理店のすぐ脇道に入ると、横浜家系ラーメンの文字。
これは食うしかない。
お父さんと娘さんがやってる雰囲気のいいお店で、ラーメン屋のさっぱりした接客も一人旅には嬉しかった。

食べ終わったくらいでちょうど日が落ち、いい感じに。「よふかしのうた」なんかも思い出す。海はとても近くて、浜へ向かう途中の民家にはシャワーがついていたり、サーウィンボードが立てかけてあったりする。The海の街という感じだ。

着いたら真っ黒な海が視界に広がる。潮騒が轟き気持ちがよい。もちろん入りました。
ちょうどサンダルだったそのまま入ったが、皮のだったし、水に濡れる想定をしてないものだから、びしょびしょになり泥まみれになった。簡単に洗い流し、砂浜で乾かしながら休み、海の音を聞いたり、端から端まで砂浜を歩いてみたりした。
さすが湘南、陽キャっぽい人がたくさんいて飲み食いしている。かわいいワンちゃんが駆け回っていて愛おしい。浜の端まで行くと堤防があって、そこで「国」を歌って帰った。わざと沿岸の歩道を通ってみる。皮が濡れたことで硬くなってしまい、靴擦れを起こしそうだったので裸足で帰った。


これほど夏らしいことをすると、現実の顔をとりも出せるのでとても癒される。

帰りの電車を、長いことホームで待った。中学生が騒ぎながら、何個か前の電車へ乗って行く。
私の乗り合わせた電車には誰も乗っていない。1日の最後に都会へ向かう人間なんて誰もいないのだ。本を読みながら都心に向かい、その途中で人が増えて、今度埼玉に向かって下っていく過程では人が少なくなってゆく。「阿呆列車」でこんなシーン読んだなあとか、考えていた。

「帰りたい、帰りたい、でも何処へ?」と最近書いた。わからなくなったから、海(母)に行ったんだ。

楽しい1日でした。


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