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それでも「長文語る」ために|はじめてのnote

はじめに

この前、タイムラインで話題になっていた、はてブで語っていたオタクはどこに行ったのか?というあややさんのブログを読んだ。

私のアイドルオタクとしての自我が確立したのは中高生時代(2007-2012)だが、その頃の私は、クローズドなコミュニティというか、mixiとか、学校の友人たちだけが読めるような限定アメーバブログしか書いていなかった。

大学で少し離れ、そして就活~就職あたり(2015-2018くらい)からまた舞い戻ってきたけれど、ちょうどその頃にはてブ花盛りの時期で、いろいろなオタクの人たちがブログを書いていて、それがとっても文化として面白くて、だからこそ舞い戻ってきた、という側面が大きい。

そしてその頃とっても面白く読んでいたブログの書き手のお一人が前述のあややさんであり、現在のアイドルオタク友達の中にも、たまたま見かけたはてブを読んで、この方の普段のつぶやきも読みたい!!と思ってフォローしたことをきっかけに、交流が始まって、、というお友達がたくさんいる。
(オタクライフが長くなるにつれて、そもそもTwitter上での交流がきっかけとか、同じ憂き目に遭ったりとか、お友達のお友達とか、チケットきっかけとか、お友達になるパターンもたくさん増えてきたけれど)

そして、そんなお友達たちも言及していたし、確かに私自身も、全然最近ブログの記事を書いていない!!

自分の感想を言語化すること

で、なんで書いてないか?という話にもなるけれど、その前に。

最近、『「好き」を言語化する技術』という本を読んだ。

その中に、「自分が感じたことを整理して言語化する前にSNSを見てしまうと、その見た感想が100%自分の感想と一致している訳ではないのに、人の感想が自分のものと入れ替わってしまい、自分しか感じられなかったオリジナルの感想が失われてしまう」「自分だけの気持ちを留めておくすべ(=言語化)を失っている」というようなことが書かれている箇所があり、それ、めちゃくちゃ心当たりがある、確かにそうだなと思ったんです。

この本の著者・三宅さんが、『批評から「解釈」ブームへ』みたいな内容の連載をいま書いているとのことで、とても楽しみにしているんだけど。

最近ドラマや映画を見ても、批評ではなく「解釈」、作者の意図を正しく汲み取れるか、ということが、フィクション作品を楽しむ上でのお作法みたいになっている印象がある。
具体的にどういう違いかといえば、批評は作り手の意図と離れて、批評家の受け取り方に重きを置いてなされるものだと思うけど、今流行っている解釈は、どのくらい作り手の出したヒントに気づけているか?という空気を感じる。
これ、タイムラインでも言及しているポストを見かけたような気がするけど、もしかしたら長文離れの一つの要因かもしれないね。「正解じゃないかもしれない解釈を書き散らすのが怖い」。

「作者の意図を答えなさい」という国語の問題が作者でも解けない笑
という作家の投稿はずっと前から定期的に見かけるけれど、究極、作者の意図と読者が文章を読んで感じることは違って、それ自体はそれで良いと思うんだよね、、、特にフィクションに関しては。
逆に一昔前は、映画とかであんまり作り手の意図が伝わるような「クサい」ことをやると、クサすぎて嫌われるような雰囲気があった(少なくとも私がいた人文系学部の中ではそういう雰囲気を感じていた)けど、最近はそうでもないのかしら?そうでもなさそうだよね。

じゃあ、どうしたら書くことのハードルを下げられるのか?

話を戻そう。
私も自分の中の、モヤモヤした、まだ言葉になっていない気持ちを言い表してくれるTwitterのポストを求めて、つい考える前に、SNSを見ちゃうこと、すごくあるんだけど、それはやっぱ良くないな~と思っている。元気がないときは仕方ないけど、やはりそれをやると、自分の感想が、いつの間にか置き換わっていってしまう感覚はある。

ただ、Twitterならまだしも、ブログって結構肩肘張って書くものっていう感じがある。事実、私ははてブの記事を書くときは、結構時間をかけて構成を考えて書いている(例外として、なにかショックなことがあったときに衝動的に書くこともある…例えば払込み忘れや現場直前コロナなど…でも、書き上がった投稿を見れば、事前に構成を考えて書いたものと、大きくクオリティが変わるようにも感じないのが不思議なところである)。

それで、「長文を書くこと」のハードルを下げてみようと思った。これまでのようにきっちり考えて書くのははてブで、それとは別で気軽にさっと書くときは、noteを使おうと思う。まあ実際の運用は、使いながら考えていこうとは思っているんだけど。
具体的には、noteのほうは基本的に、思ったことをワーッと喋って音声入力して、それをスマホで少し校正して、投稿する予定。パソコンの前に座る時間を取るのが、やっぱり難しい。本当は落ち着いてパソコンで書くことも好きだし、パソコンで書いた自分の文章の方が、スマホで書いた自分の文章よりも好きなんだけど。でも、それでも「パソコンで書こう書こうと思っていたのに、結局、記録しない」っていう方が、さらに嫌なので。

言語化しない事は考えてないことと一緒……とまでは言わないけど、やっぱり、モヤモヤをそのまま放置して言語化しないことは、考えるのをサボってるな〜と思うことはある。
もちろん、ブログとして書かなくても、言葉として友達や家族と話したり、Twitterでつぶやいたり、音声配信することも、言語化のひとつであり、それでも効果が得られると思う。
ただ、やはり記録性……あとから振り返ることができるという点で、文字化しておきたいと、私は思った。だから、文章のクオリティーと言うよりも思ったことを記録しておくツールとしてnoteに書いておこうかな。Twitterもいいんだけど、ルーズリーフみたいな感じで散逸してしまうなという感覚があって。私は万年ルーズリーフ吾妻散逸系女子高生だったので(注:平成一桁代生まれが女子高生だった頃はBLEACHの時代だったよ。アーロニーロ・アルルエリ)
この後もそういった使い方をするつもり!!
いつまで続くかわからないけど、よろしくお願いします。


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