劇団アドック第三十回公演『いのち見つめて 『環』 シーボルトの娘、産科医イネを語る』初演と、シーボルトの子孫と私の祖父との縁
昨晩は、六本木の麻布区民センターで開催された、劇団アドックの第三十回公演『いのち見つめて 『環』 シーボルトの娘、産科医イネを語る』初演を観に行きました。
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幕末から明治期を、シーボルトの娘として、そして、日本初の西洋医学による産科医として、激動の世の中を懸命に生きた“オランダおいね”の生涯を、史実に基づきながらも、そこに、新たな視点を加えた“創作演劇”という作品に、おおいに感銘を受けました。
出産という、地球上で生を受けた者全てが必ず通り抜けていかねばならない試練や宿命、時には宿業に立ち向かわなければならない産科医を一生の仕事として選んだ、楠本イネの生涯を、
少女期や、修行時代、さらには、産科医としていくつかの依頼者=クライアントの出産場面に立ち会う際に起きた様々な事象を通して、晩年に差し掛かったイネが独り語りを通して回想していくというストーリーテリングでしたね。
史実を“予習”してから観ると、より深く理解することができましたが、
ストーリーは、ジェンダーギャップや、様々な差別や偏見との闘いを含めて、今日的なテーマも扱われており、見どころの多いドラマでしたね。
今回、普段は、音美都代表として、ドラマーや音楽プロデューサーとして活動していた鎌倉規匠さんが、役者として初出演された機会を見届けましたが、
冒頭では主人公イネの幼馴染として、さらには、幕末の激動期を経て明治期になってから、既に西洋医学の産科医としての実績を積み重ねてきた主人公に再び再会して、互いに成長した姿を見せ合うという、非常に重要な役割をこなされて、出演者の中で最も台詞が多い、大変重要な役を演じられたようでしたね。
終演後には、ロビーで、出演者と観客の交流の機会が設けられていて、それぞれの役者に対して、知り合いも多く駆け付けて、ワイワイガヤガヤと盛り上がる、生の舞台を売り物にする演劇ならではの光景も、やはりいいものでした。
幼少期のイネを演じたのは、石塚麻陽さんという子役さんでしたが、実は、幼少期の子供を演じたのは、絣の着物を着て坊主頭をした少年に扮した鎌倉規匠さんと彼女の二人だけで、事実上の子役は石塚麻陽さんだけでした。
終演後のロビーで、彼女が、ちょっと所在なさそうに軽くくるくる回って踊っているのをふと発見したのですが、他の大人の出演者には、たいてい知り合いが駆け付けて演技の感想を述べてもらったり労をねぎらってもらったりしていましたが、こういう時には、家族が駆け付けなければ、子役には誰も来てくれないことも多いようです。
大人たちの演劇集団に交じって演劇をしていく子役という、ちょっと特殊な人間関係を垣間見たのは、割と貴重な瞬間だったかもしれませんね。
さてこの演劇は、本日を含めて、明日までの公演ですので、興味を持たれたら、大きな会場ですのでお気軽にお立ち寄りくださいね。
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「かつて慈恵に在学した興味ある人物 その一 シーボルトの曾孫・楠本周三」
松田誠
『高木兼寛の医学』
東京慈恵会医科大学、2007年。
【個人的備忘&余談】
シーボルトの曾孫にあたる、楠本周三氏は、医学を学んで卒業した、現在の東京慈恵会医科大学を明治41年に卒業したので、同校の第2期生ということになりますね。
一方、私の父方の祖父である池淵貢は、同校を第1期生として、明治40年に卒業しており、【ほぼ同期生、たぶん、周三さんは1学年後輩】にあたるのでした。
周三さんは、現在の獨協大学の前身である獨協中学校を卒業後に浪人したりして、同校に入学するまでに年齢を重ねているので、学年は1級下とはいえ、年齢としては上であろうと思われますし、教室や実習では、同じ学窓で学んだ可能性もありそうですね。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/池淵家
池淵家(境港市栄町)
境町の池淵玄達
中野村出身であり、玄造の代になって境に移ったという。
二代・玄達は玄造の甥。
若くして中野村の景山粛に医術を教えられた。
粛の娘・りんを嫁にもらい、境村栄町で開業。大いに繁盛した。
(実は、島根県出身で、元・テレビ朝日「ニュースステーション」初代お天気キャスターで、赤毛のアンに関する著作でも知られる作家、松本侑子先生の歴史小説『神と語って夢ならず』(光文社)2013年・改題『島燃ゆ 隠岐騒動』(光文社文庫)2016年の作中で、主人公の恩師として池淵玄達が登場したりしております)
さらに、玄達の息子、竹治郎の長男貢は、【明治40年(1907年)、東京慈恵医院医学専門学校(現・東京慈恵会医科大学)を卒業】。
その後アメリカに渡り、カリフォルニア州をはじめ各州の病院で研修した後、大正2年(1913年)に帰国。
境町栄町で開業した。
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なお、池淵貢が、米国各地で鉄道医師として働いていた頃、ユタ州のオグデンという、当時の大陸横断鉄道の重要な中継地(鉄道路線の切替駅)で鉄道病院の医師として働いていた時に、ちょうど、渋沢栄一氏が率いる「渡米実業団」
がオグデンを短時間の30分間ではありましたが訪問して、地元の在留邦人から歓待を受けたという記録が残されており、
当地の在留邦人の一員として表敬訪問したであろうと、個人的には推察しております。
オグデン - ユター州
到 着
1909年11月17日 13:30 デンバー・エンド・リオ・グランド・レールロード
出 発
1909年11月17日 14:00 サウザーン・パシフヒク・レールウエー
11月17日
「暫時停車。在留日本人の来訪するもの多し。」
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この演劇のお陰で、シーボルトの子孫と、私の祖父との縁を知ることができて、大変感謝しております。
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