ジャニスの祈り、再び
ジャニス・ジョプリンについての記事より
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=746526024156762&id=100063981132592
意外に思われるかもしれませんが、私がジャニス・ジョプリンの名前を知ったのは、私がスージー・クアトロのファンだったからでした。
スージー・クアトロは、ボクたち世代の女性ロッカーのカリスマとして、キューティーフェイスにダーティワード&ヴォイスのギャップが堪りませんでしたね!
高校生の頃には、下敷きにクリアファイルがくっついていて、それに雑誌の切りぬきを挟むのが流行っていて、私は、週刊FMのグラビアページの、カワサキZ1000というモンスターバイクに跨がった、革ジャンツナギのスージーQの写真を切り取って挟んだ下敷きを持ち歩いていたものです。
彼女のレコードのライナーノーツに、
「スージーを、女性ロッカーの先駆けであるジャニス・ジョップリンの再来であるという向きもあるが…」
という一文があり、そこで初めて彼女のことを知り、それから少しずつジャニスのことを追体験していくようになりました。
そして、
ジャニスの歌を初めて聴いたのは、それからしばらく経って、高校の同級生のH尾君がジャニスのファンだということがわかり、お互いがロック好きということで、私が当時最もハマっていたディープ・パープルのライブアルバムをエアチェックしたカセットテープを持って、お互いが好きなアーティストの曲を聴かせ合うという趣旨で、彼の家に遊びに行きました。
彼の愛用のステレオ・ラジオ・カセット・レコーダー、ソニー製の「スタジオ1980」から、ジャニスの「サマータイム」が流れてきた時は、そのあまりのしわがれた、この世のものとも思えない独特の声に、これが本当に歌なのかという感想を抱いたものです。
真夏の暑い日で、当時は多くの家庭では冷房なんて設置されていない時代でしたが、本来は蒸し暑さでいっぱいの室内が真冬のように感じられたものでした。
夏のことを歌った歌なのに。
しかし、この独特でしわがれて絞り出すような歌い方がクセになるのでした。
1970年代半ばの、非常に暑い夏の不思議な真昼の出来事でしたね。
※※※
一方、
スージー・クアトロの売り出し方も、事務所の都合だったのですが、彼女も、ああいう形でメジャーになるまでは、相当苦労したことを後になって知りました。
スージーQをメジャーシーンに売り出したのはイギリスですが(これは、米国生まれのジミ・ヘンドリクスも同じパターンでしたが)、元々は、米国の自動車産業の町デトロイト出身で、親父さんがロックビジネスの野心家で、最初は、娘たちにガールズロックバンド「ザ・プレジャー・シーカーズ(直訳すると、快楽追求隊ですぜ、奥さん)」を組ませて売り出そうと思ったのですが、保守的な町では受け入れられず、当時は末っ子だったスージーだけが音楽活動を継続していました。
ようやく、イギリス人の辣腕音楽プロデューサー、ミッキー・モストに認められてデビューシングルを出しましたが、最初の曲「ローリング・ストーン」はフォーク調の、ちょっとジョーン・バエズの二番煎じみたいな歌(←あくまで個人的な感想です^^;)で、コロコロと転がっていろいろな男を渡り歩く女ゴコロの未練を歌ったフォーク・ロック演歌のような曲は、全くヒットしませんでした。
そこで、ソングライターとして、マイク・チャップマン&ニッキー・チンのコンビを付けて「キャン・ザ・キャン」という、滅茶苦茶突き抜けた、おバカロックを出したところ、ようやくブレイクすることができました。
当時は、Tレックスやデヴィッド・ボウイに代表されるグラムロックが流行っていたので、それに対抗してグラマラスロックとか、サディスティックロックの女王と呼ばれていましたね。
Can the can には、あんたの男を缶詰めにしちまいなという意味とともに、隠語としては、女性の武器であるお尻で封じ込めておしまいという意味もあり、ソングライターの力も大きかったですね。
彼女のアルバムには、「グリセリン・クイーン」という曲があり、それはゲイのことをからかった歌なのでしたが、当時の私にとっては、いち速くオトナの世界を垣間見せてくれた曲でもありましたね。
このあたりのいきさつについては、以下のサイトに掲載されている話がサイコーです。
チャップマン&チンSONGBOOK/ロンドン大馬鹿POP列伝
1973~1975年に大量のシングルヒットを連発したミッキー・モストのRAKレコード。その専属ライターだった「チン&チャップマン」コンビの垂れ流した “大馬鹿POP”の跡をたどってみる。
チン&チャップマンSONGBOOK/ロンドン大馬鹿POP列伝<1>
スージーQ話特集は、コチラへ
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本編記事は、半分、スージー・クアトロの推し活動についてでしたので、
ジャニス・ジョプリンについての私的考察は、コチラへ
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どのドキュメンタリー映画だったのか、遥か昔に観たので覚えていないのですが、彼女が、コンサートの直前に、たぶん、今でいう“性被害”にあった直後にステージに現れて、それでも気丈に振る舞いながら、特に女性の観客に対してメッセージを発しながら熱唱する姿を撮ったフイルムが遺されていました。
一見、豪放磊落で男勝り、一方で“阿婆擦れで男を取っ換え引っ替え”していると見做されていた彼女が、やはり実は男社会のロックビジネスの世界で藻掻き苦しんでいた事を痛感させられた映像に心を痛めたものです。
また、ロックの女王という称号を得てから、かつては避けていた、高校時代の同窓会に出席した後に、マスコミからインタビューを受けた時の映像もありましたね。
高校時代は目立たず、さらには、今でいう“ハブ”にされていた存在だった彼女としては、これだけショウビジネス界から持て囃されているのだからと、勢い込んで参加してみたところ、昔と同様に、そんな実績などどこ吹く風と、冷たく同級生にあしらわれ、打ちひしがれて会場を後にした彼女の姿を見るにつけ、心が痛みました。
そして、それは家族においても同様であり、他の兄弟姉妹とは異なり、いつもトラブルを引き起こす“問題児”としてしか扱われなかったことが、如実に表現されていました。
ジャニスの、まるで底なし沼か、さらにはブラックホールのような悲しみや孤独感を感じさせる歌には、そのような体験から生まれたものなのだろうなという感想を抱きました。