『男と女』に、フランシス・レイとクロード・ルルーシュとピエール・バルーの偉業を偲ぶ
10月16日から開始される、「フランシス・レイ追悼コンサート」来日公演の企画者の1人、レイナ・キタダさんからのメッセージです。
老若男女に愛されたフランシス・レイの珠玉の音楽を、彼にゆかりのある仏日を中心とした本場のミュージシャンで聴くことができる貴重な体験の場となることでしょう。
東京公演は、チケットが残り少なくなってきたそうですし、全国各地のツアーも好評だそうです。
是非とも、特に日本を愛し、そして日本からも愛された彼の偉業を偲ぶ催しに奮ってご参加くださいね✨
そして、以下のインタビューは、まさに、レイナ・キタダさんの感動的な秘話=ヒストリアとなっていますね。
とともに、フランシス・レイのヒストリアを、私なりにちょっとご紹介してみましょう。
ちょっと長文注意ですが、フランシス・レイと、『男と女』を監督しようとしていたクロード・ルルーシュを結び付けたのは、この映画にも、ヒロインのアヌーク・エーメの前夫(実生活においてもそうでしたが)のスタントマン役として出演したピエール・バルーであり、
当時のフランスのボサノヴァ=フレンチボッサのアーティストだったフランスの歌手兼俳優、ピエール・バルー=14歳からギタリストとして音楽活動をはじめ、ポルトガルを旅した際にシヴーカに出会ったことから、当時の若者の間で一大センセーショナルなムーブメントを巻き起こしたブラジル音楽のボサノヴァを知り、すぐにフランスに戻りボサノヴァを広める=が『男と女』の冒頭に出演してボサノヴァについて、モノローグで熱いメッセージを語るシーンが挿入されていました。
彼は、この映画が撮影される前にブラジルを放浪して、ボサノヴァ勃興期のミュージシャンとの交流を通じて、『男と女』の撮影が“再開”されるということでフランスに帰国する直前に、ブラジルのボサノヴァミュージシャンと即興演奏を録音して帰国したところ、クロード・ルルーシュ監督がえらくその楽曲を気に入り、この映画の冒頭でその音源をそのまま挿入して、ブラジルのボサノヴァ音楽の本質である“サウダーヂ”について熱く語っています。
その後、晩年には、ピエール・バルーは日本人のアツコさんと再婚して、彼の美学や芸術感を遺そうとしました。
このあたりのことを知っておくのも一興かと思います。
上記のnoteのうち、特に、フランシス・レイとクロード・ルルーシュとピエール・バルーの絆、『男と女』の製作秘話について、以下にピックアップしてみましたので、ご高覧ください。
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昔から、フランス映画やフランスの音楽を追い掛けております。
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=3447696611926696&id=100000591726100
そういえば、子供の頃に、ジュール・ヴェルヌの『海底2万マイル、あるいは2万海里(フランス語の原題はVingt Mille Lieues sous les mersなので、『海底2万リーグ』が一番正しいのかな?)』で心躍らせていたのが始まりかもしれませんね♪ヽ(=´▽`=)ノ♪
さて、この投稿のお陰で、なかなか見つからなかった、『男と女』にも出演して、フランスにボサノヴァを紹介する重要な役割を果たして、映画の公開当時は主演女優のアヌーク・エーメと結婚後、長い年月を経てから、日本人のアツコさんと結婚して“サラヴァ”レーベルを立ち上げていたピエール・バルーのパートナー、アツコ・バルーさんのブログを“再発見”しました。
我々にはサラヴァが必要だ(その1) | アツコ・バルーのブログ | L'AMUSEE
大変残念ながら、ピエール・バルーさんは既にこの世を去っています(2016年12月28日)が、その、サラヴァ・スピリッツはずっと継承されていくことでしょうね。
※※※
そして、もう1つ、大事な投稿記事がこれでしたね。
その人が「道しるべ」だった。
- ほぼ日刊イトイ新聞
『ほぼ日刊イトイ新聞』の2017年の連載記事でした。
「ピエール・バルー、ほとんど最後のインタビュー」
旅人にとっての北極星がそうであるように、ピエール・バルーその人自身が、若きアーティストにとって、ひとつの「道しるべ」だったのではないか。
短いインタビューをまとめ終えた今、そんなふうに思います。
詩人、歌手、俳優、映像作家、そして欧州最古のインディーズ・レーベル、「サラヴァ」の主宰者。
在りし日のピエール・バルーさんのお話を、ここに、お届けいたします。
ご一緒くださったのは、妻のアツコさん。
インタビューから約2ヶ月後の昨年暮れ、ピエールさんは、急逝されました。
わけへだてなく、誰にも開かれていて、何よりあたたかかったお人柄が、百分の一でも、伝わったらいいのですが。
担当は、ほぼ日の奥野です。
※※※
このインタビューでは、『男と女』の製作秘話が語られ、ご本人のピエール・バルーや監督のクロード・ルルーシュ、そして、音楽を担当したフランシス・レイとの繋がりが語られているので、その“さわり”をご紹介しておきますね。
※※※
──ピエールさんは、音楽家であり、
詩人であり、映像作家であり、
ヨーロッパ最古のインディーズレーベル
「サラヴァ」の主宰者であり、
俳優として
カンヌ映画祭でグランプリを獲った映画
『男と女』に出演したりと、
さまざまな芸術活動をなさってきました。
ピエール
はい。
──今日は、そんなピエールさんの
これまでの人生のことをうかがいたくて、
こうして、おじゃましました。
ピエール
わかりました。
じゃあ『男と女』という映画の
成り立ちから、
少しずつ話していきましょうか。
──ありがとうございます。お願いします。
ピエール
まず、『男と女』をつくる前に、
監督であるクロード・ルルーシュの前作
『乙女と猟銃』に出演したんです。
──すみません、
その映画のことは知りませんでした。
ピエール
商業的には成功しなかった映画でしたが、
そのときルルーシュが
「次は、こんなのをつくりたいんだ」
と言って、
その「こんなの」を話してくれたんです。
──シナリオなどもない段階で?
ピエール
そう‥‥もう死んでしまった男性と、
その男性のことを想い、
過去の思い出の中に生きる女性。
具体的なストーリーはなく、
そのシチュエーションだけがあった。
──へぇー‥‥。
ピエール
いろいろ会話を重ねていくうちに、
「男と女がいるというだけでなく、
女が別の男と恋に落ちたら、
もっとおもしろいんじゃない?」
ということになって、
ジャン=ルイ・トランティニャンを
紹介したんです。
──ええ、俳優の。
ピエール
彼とは、いまでも親しい友だちですが、
トランティニャンが
『男と女』の相手役となる
アヌーク・エーメを、連れてきて‥‥。
そうやって
3人の役者と1人の映画監督の4人で、
すべてインプロヴィゼーションで
撮影した映画が、『男と女』なんです。
──はい、インプロビゼーションというと、
ようするに「アドリブ」ですね。
ピエール
そう。で、映画を撮りはじめて
2週間くらい経ったころ‥‥だったかな、
ルルーシュが全員を集めて
「じつは、もうお金がないんだ」って。
──え、そんな、急に?
ピエール
そう(笑)。だから、そこで、映画の撮影が、
頓挫してしまったんです、突然にね。
でも、ここで時計の針を少し戻すと、
最初にルルーシュ監督と
『男と女』の元になる構想を話したときから、
わたしは、フランシス・レイに、
なんとか仕事を回したいと思っていたんです。
──フランシス・レイさん。作曲家の。
ピエール
そう、レイとは、それより前から友だちで、
いっしょに歌を書いていました。
彼のメロディと、
わたしの詞のコンビでやっていたんですね。
ただ、当時まだフランシス・レイは、
田舎から出てきた、
道端のストリートミュージシャンに過ぎず、
バーやキャバレーで歌っては、
お金をかせぐ「流し」でしかなかった。
──世間的には無名だった、と。
ピエール
案の定、ルルーシュ監督には、
そんな、素性もわからないような若者に
映画音楽を担当させることに、
抵抗感‥‥いや、拒否感がありました。
なぜかというと、当時の「映画音楽」は、
オーケストラがふつうだったから。
──かたや、レイさんは
名もなきストリートミュージシャンで。
ピエール
だから、なかなか、
会おうって言ってくれなかったんだけど、
『男と女』の構想を聞いたとき、
わたしたちは、すでに、
それと似た想定の歌をつくっていたんです。
──レイさんとピエールさんのコンビで。
ピエール
そう、そこで、ルルーシュを、
当時レイの住んでいたモンマルトルまで
引っ張っていって(笑)、
レイにアコーディオンを弾きながら、
その曲を歌ってもらったら、
監督が、いたく気に入ってしまってね。
「ぜひとも映画の中で使いたいから、
録音しておいてくれ」と。
──おお、すごい。
ピエール
ただ、いまの話は映画の準備段階で、
自主制作だったために、
撮りはじめるにあたって、
お金を集めるのに、時間がかかると。
だから、
監督が資金集めに奔走している間に
ブラブラしていても仕方がないので、
ブラジルへ行ったんです。
──映画は、ひとまず置いといて?
ピエール
うん、というのも、ブラジルで
俳優としての仕事の口があったんです。
ルルーシュ監督に
「仕事のオファーが来ているんだけど、
どうしよう」と相談したら、
「まだ資金集めには時間がかかるから、
行ってきたら?」って。
──あはは、ゆるくていですね(笑)。
ピエール
ブラジル、行ったことあります?
──ないです。
ピエール
とっても、いいところなんです。
グアナバラ湾をはさんで
リオ・デ・ジャネイロの反対側にある
漁村でロケをしていたんだけど、
撮影が終わっても、
フランスから、
帰ってこいという連絡は一向に来ないし、
ブラジルは素敵だし‥‥。
──気に入っちゃったんですか。
ピエール
そのまま、その漁村に滞在し続けました。
毎週、日曜日になると
船に載ってリオ・デ・ジャネイロに渡り、
ブラジルの音楽家の
バーデン・パウエルたちと、
一晩中、音楽を演奏していたんです。
<つづきます>
2017-03-22-WED、オーケストラがふつうだったから。
(続きはWEBで…)
https://www.1101.com/pierrebarouh/2017-03-28.html
7回短期連載記事の最後に…。
その人が「道しるべ」だった。- ほぼ日刊イトイ新聞
<終わります>
この取材から2か月後、2016年12月28日にピエール・バルーさんは永眠されました。
心から、ご冥福をお祈りいたします。
取材の最後に「道しるべ」の話が出ましたが、記事をまとめ終えた今、若きアーティストたちにとっては、きっと、ピエール・バルーその人こそが「道しるべ」だったんだろうなあと思います。
2017-03-28-TUE
『ほぼ日刊イトイ新聞』
奥野
※※※
さらにさらに、
『男と女』シリーズの
第一作から、最終章と呼ばれる作品までを一気に観た時の私の感想を、やはりアーカイブスからご紹介しますね。
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=3447696611926696&id=100000591726100
『男と女』シリーズは、クロード・ルルーシュ監督とフランシス・レイ音楽監督によるライフワークであり、人生そのものの記録であったことがよくわかるのではないでしょうか。
※※※
先日、まだ、非常事態宣言が発令された日から数えるとかなり前に、フランス映画の『男と女』=クロード・ルルーシュ監督&フランシス・レイ音楽監督、主演男優ジャン=ルイ・トランティニャン&主演女優アヌーク・エーメを観た直後、さらに数時間後に、その50年後を全て同じスタッフとキャストで“その後”の顛末を描いた『男と女~人生最良の日々』を観る機会がありました。
ドラマに登場するのは、最初の作品に登場した子役も含めて、全て可能な限り同じ役割を果たしたという、まさに人生そのもののような、そしてクロード・ルルーシュ監督の世界観が、まるでそのままずっと現実に続いていたかのような“奇跡”を体験できた幸運を味わいました。
もちろん、実際に50年という歳月が経過していますから、時の残酷さも感じますし、ある面では変わらぬ部分にほっと胸を撫で下ろす場面もありました。
実は、クロード・ルルーシュ監督は『男と女』によって、初めて世の中に認められた(それまでに、ドキュメンタリーやミュージックフィルムの短編をたくさん撮ったり、初めての長編を撮るも酷評に堪えかねて自らその作品を焼却したりと、苦節も苦渋も味わっています)ため、この作品は自身のライフワークとなっており、20年後には『男と女 part2』も、同じスタッフとキャストで発表しました。
こちらは、商業的にはあまり成功したとはいえないそうですが、それでも、この作品のストーリー(設定)もふまえて今回の“part3”に当たる作品が撮られたので、私もいつかは“part2”も観てみたいと思います。
そして、おそらく、シリーズとしては最後の作品と思われる『人生最良の日々』(フランス語の原題と英語のタイトルにはこの語句しか並んでおらず、「男と女」は使われていませんでした。それを言ったらお終い=野暮だよということでしょうか)、残念ながら盟友の音楽監督フランシス・レイがこの作品が完成する前に亡くなってしまったので、これが最終作になるのではないかと思います。
そのエンディングですが、黄昏時のシーンで、ジュール・ヴェルヌ、そして、おそらく“エリック・ロメール”にオマージュを捧げているのが、わかる人にだけわかる形で表現されており流石だなと思いました。
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=1921597887869917&id=100000591726100
映画は、言葉で語るより映像と音楽で饒舌に語る…。
映像の魔術師と呼ばれたクロード・ルルーシュの面目躍如たる所以でもありましたね。
※※※
この三作を連続して鑑賞してわかったことがあります。
(「part2」は、この予告編と、あらすじ情報を確認したのみですが)
すなわち、三作に共通して流れているのは、
「男と女、そしてクルマ」
クルマについては、クロード・ルルーシュ監督は超がつくほどのカーマニアだそうで、ドラマ全編にわたってクルマのシーンが描かれ、それに絡ませて男女の愛が描かれているという構造を採っているのでした。
監督は、最初に世界的な評価を得た『男と女』を、自己資金で何とか一般公開に漕ぎ着ける前には、多くのドキュメンタリーや音楽のプロモーションフィルムを撮っていたそうで、その実績を引っ提げて撮った最初の長編映画は、評論家から散々に酷評され、自身も、その作品を自ら焼却してしまったそうです。
たぶん、自身の趣味の世界、おそらくクルマのシーンだけをひたすら撮影して、ストーリーの欠片も感じられない難解な内容というか、一般には理解されない、趣味に走った作品だったのでしょうね。
そこで、いたく傷付いた監督は、やはり自身の趣味や主張だけでなく、そこにメインとなる題材=男と女の愛を料理したうえで、そこに自分の趣味であるクルマをスパイスとして振り掛けることにしたら一般にも理解され今日の地位を確立することができた…。
ここの“さじ加減”が名匠と呼ばれるのか、それとも、独り善がりのオタッキーな存在で終わるかどうかの分岐点となるのでしょうね。
アーカイブスとしてのFacebook記事をまとめてあります。