蛍光ペンについて(2024.07.06)
[ここからは1,000文字に含みません]
十七日目です。
滅多に来ない駅に来てみました。用賀駅というところです。
なんだか全体的にスッキリしているというか、通りのいい場所だなと感じました。丸の内のビルほどドンっ!と構えているわけでもなく、品川のように無機質でもなく、かといって秋葉原や上野や中野のような煩雑さは全くないので、なんか現実ではないような感覚がします。
私はやることなすこと、土地やお店などの「場所」に縛られる衒いがあります。この場所でどんなものを書くか、どんな謎を作るかについて少しワクワクするのです。
資生堂ギャラリーさんの展示をみてから、昔のポスターデザインを追っています。
なんというか押し付けがましくなく、でもエネルギーに溢れた「自信」の一作、という匂いがするのです。
思えばこういうコピーは最近見ない気がします。寂しいですが、時代でしょうか。
[ここまでは1,000文字に含みません]
蛍光ペンについて書いていく、よーいスタート。
大人になって使ったことは、思い出してみるとなかったかもしれません。
鉛筆はシャーペンになり、そのシャーペンはボールペンになり、しかし蛍光ペンは小学校高学年あたりから突如現れては急に消えていった気がします。
そういえば昔は筆箱なんて、たくさん入っていればいいと思っていて。鉛筆の黒鉛で汚れた文房具たちをみて、気まぐれで磨いたりしていたことを思い出します。その中で蛍光ペンはひたすら鮮やかで、それゆえ汚れるのも早いものでした。
なんで使わなくなったのか、という方面に考えを向けてみようと思います。
蛍光ペンの何より良かったのは、鉛筆を邪魔しないところでしょう。一度鉛筆で書き込んでみて、重要そうなところをなぞってみる。その一連になんとなく、集めた宝物箱に手を突っ込んで、その綺麗さを確かめるような高揚を感じていました。その折、赤ペンや青ペンは主張が強すぎて、しばしば集めた宝物を隠してしまいます。蛍光ペンの鮮やかで、眩くて、それでいて黒を邪魔しない色は、宝物の価値をメモするのにぴったりの素材でした。
いつも「黄色は重要、赤は応用、青は……」と役割分けをしようなんて心に決めて頑張ったりしていましたが、たくさんの板書をするうちに結局それもおざなりとなって、気がついた時にはぐちゃぐちゃになってしまっていました。これを絵画としてホワイトキューブなんかに展示してみたら、なんかいい気がしています。
話を戻して、なぜ使わなくなったのか。
それは「自ら目標をつけた情報」への価値が希薄になったからではないかなという仮説を立てました。
思い返せば子供の頃は、教科書やテキスト、自分のノートなどのランドセルに治る範囲で世界が完結していて、そこにやってくる新しい情報は、流れ着いたボトルメールみたいに貴重なものでした。
ところが大人になってみると、情報はむしろ自分の手のひらになんて収まりようのないほどたくさんあり、またそこから拾い上げることも容易になりました。ご存知のようにインターネットの登場によってですね。
これによって、情報に目印をはり、大切にとっておく行為の価値が著しく低下したのだと思います。覚えるより検索した方が早いし確実で、かつ覚えたことがアップデートした内容が拾えたりもする。というか、ちょっと大事そうなことならブックマークをしておけば、ふとした時にその部分だけ見返すことができる。
それが「参照するのに手間のかかる膨大な情報の一部に目印をつける」蛍光ペンの役割が「そもそも膨大な情報から必要な部分だけを、自分が何もせずとも容易に抽出できる」検索エンジンに抜かれてしまったということなのかなと考えました。
切ない話ですが、それだけ世界へアクセスする扉が大きくなったということなのではないでしょうか。
個人的には、今一人一台タブレットが配布されているという子供たちの筆箱が、どのくらい重いかが気になります。
(文字数:1189文字)