めんどくさい人
わしはとてもめんどくさい男だと思う。
魔王のわしを産み落とした母親でさえも、口癖のように
👹「おまえはめんどくさい男じゃなあ!!」と言っていた。
おまえが産んどいてその言い草はなんなのだ、
とも思ったが、きっと別れた妻も同じように思っていたことであろう。
事実わしはめんどくさい。
気難しいし、怒りっぽい。
そういうところを変えていきたいとは思っているが、なかなか難しい。
わしがこうなってしまったのには理由がある。
もともとわしは穏やかな性格で、
和を重んじ、争いを避け、
いつもニコニコニコニコ過ごしておった。
するとどうなったか。
わしのことを雑に扱うヤツが後を絶たなくなったのだ。
わしのことをバカにし、軽視するヤツが増殖してわしはめっちゃ傷ついた。
それからというもの、わしは感じの悪いやつがちょっかいを出して来たら、必ず自分の気持ちを伝えるようにしてきた。
そういうことはやめてほしい、と。
しかし第一印象というのはすごく大事で、
一度舐められてしまったら、人間は態度を改めない。
「コイツは自分よりも下だ」
一度そう思った人間は、とことん人を見下す態度をとるようになる。
だからわしは人間が大嫌いなんじゃよ!!!!
妻との離婚も、そういう理由だった。
詳しくは言わんが。
だからわしはひきこもっているのだ。
もうバカにされたくない、
軽く扱われたくない、
雑に扱われたくない。
そういうわしの態度、思いが、
めんどくさい
のであろうな。
他人が思う「そんなこと」が、
わしにとっては「そんなこと」ではない。
きっと誰も悪くない。
悪気などない。
しかしわしはそう感じ取ってしまうのだ。
舐められた!と。
バカにされた!と。
こういう問題には正解がない。
わしと関わる人間に、悪意はないと思う。
しかしわしが嫌だと思えば、その人間=悪意なのだ。
悪意を持った人間など、ほぼいないであろう。
みんなそれぞれ一生懸命生きているのであろう。
しかしそんな数多の人間に紛れて、
本当に悪意を持った人間も存在する。
故意に人を害そうとする人間もいる。
わしはその見分けがつかない。
ほかの人には感じがいいのに、
わしにだけ悪意の刃を向けてくる者がいる。
わしにはそうとしかみえない。
そういう人物は、わし以外のほかの人間にとっては「いい人」であるのだが、わしにとっては「死ぬほどイヤなヤツ」としか映らない。
こんなことはきっと、
気難しいわしじゃなくたって、
誰しも一度は感じたことがあるのではないだろうか。
誰かにとっては「すごくいい人」が、
別の誰かにとっては「最悪の人」になる。
例えば、日本の政治家は一部の外国の人たちにとっては最高の人だろう。
だって、お金をたくさんくれるんだもん。
日本人からかき集めた税金を、惜しげもなくわけてくれる。
だから外国人は日本の政治家が大好き。
しかし日本人の我々からしたら、
なんで日本人から集めた税金を日本人のために使わず、
外国人にタダであげてしまうんだ、
絶対に許せない、死ね!!!ってなるであろう。
なにがウクライナ支援だ、
その金であいつら人を殺す兵器を買ってるんだぞ、
日本人が殺人の片棒を担がされてるんだぞ、
ふざけんな!!
ってならない?
ロシアは悪だから、
そんな悪の国家は滅べばいい?
仮にロシアが悪として、
ロシアにいる人全員が悪なの?
殺してもいいの?
それはしかたないことなの?
人を殺すための兵器を買うためのお金を援助することに賛成できるの?
話がそれた。
我々は日本の政治家が大嫌い。
だってイジワルしかしないじゃんね。
でも一部の外国人にとってみれば、
日本の政治家最高!!!フゥーーーー!!ってなってるよね。
アゲアゲになってる。
そういうことが、個人の間でも普通に起きてるんだよ。
同僚の間で、
家族の間で、
友達の間で。
「なんで自分にだけこんなことするんだろ😢」
めんどくさい人じゃなくたって、
誰だって、
そんなことを一度は思ったことがあるはず。
おれ自身、すごくめんどくさい人だから、
おれはどこかでめんどくさい人を見かけても、
言わないようにしてるんだ。
「あなたはめんどくさい人ですね」って。
そんなふうに言われる人の気持ちを知っているから。
レッテルを張られる人の気持ち。
決めつけられる人の気持ち。
ダメだと否定される気持ち。
それを知ってるから、自分は人にそういうことを言わないようにしてる。
めんどくさくない人なんて、
どこにいるんだろ。
人間なんて、全員めんどくさいじゃん。
自分のめんどくささを差し置いて、
人に堂々と「あなたはめんどくさい」と言える。
そういう人間が、本当にめんどくさい。
わしらは全員うんこだぞ。
洗ったって、洗ったって、きれいになることなどない。
「目くそ鼻くそを笑う」ということわざがあるではないか。
汚い者同士で争ってなんになるのだ。
クソ同士できれいさを競ってなんになるというのだ。
そんな自分を、
そしてそんな他人を、
受け入れながら生きていく。
きっとそこにしか、救いはないと思うのだ。
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