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『過去の音に導かれて』

 「ババア」

 そう呼んでいたのは、高校1〜2年生のころだ。深い意図はない。徐々に母を拒絶するようになり、干渉を避けるために用いた言葉だ。

 もう気づいていた――暴言には抑止力があるのだと。

 同時に、申し訳なさも感じていた。吐き捨てた暴言の数だけ、後悔があった。しかし、反省している自分を見せると、母はぼくの「バリア」を破る。そう怖れ、赤裸々な姿は見せなかった。

 心と言葉を連動させると、距離が縮まる。

 近い距離での接触を避けていた。

 遠のくことで、楽になり一時的な解放感に浸れた。だから親に暴言を吐き捨ててた。親との距離が離れてゆくにつれ、友人とは仲良くなっていった。

 言葉はいらなかった。恐らく同じような反抗心で結束され、ぼくは友人との縁を大事にした。

 「バリア」の正体ーー。

 今思えば、自分の統治する小国のようなものだ。統治者=自分に「らしくあれ」と、強要するように思えた、親や教師。そうした存在は、国家を脅かす権力のようだった。抗(あらが)うことで小国を守ろうとしていた。

 友人とともに過ごす時間と空間が、全てで、それら以外を、断固として拒む時期――誰しもが大なり小なり通過する。ただ、ぼくの場合は、少し過激だったのかもしれない。牙をむき出しにしていた。

 母の苦労も知らず。

 当時、母はピアノ教室を開いた。たしか、もうすぐ50歳だ、チャレンジをしたのは。神経はもちろん、体力もかなり消耗し、疲弊しきっていたはず。

 のちに聞いた話。学校前でチラシを配り、近所の家にも、営業をしていた。心が折れそうになったとも。

幸い、母は商売上手で、音楽教室の運営は成功した。

 数十人も生徒が集まるようになった。実家の地下室で、ピアノを教えているものだから、音楽は家にいると、自然と耳に入ってくる。嫌だった。その音を聞くのが。つまるところ、母の前進を認めたくなかった、生意気な心理の現れだと思う。

 軌道に乗ってゆき、発表会を、大きな会場で開くようになった。ぼくは準備を手伝いに行くこともあった。当然、反発したが、苦労を軽減させようとの気持ちから、参加した。ふてくされた態度で、極力サボれるよう、会場設営を手伝った。

 発表会にくる親御さまは、お子さまの晴れ舞台を目に焼き付け、感動していたのも思い出す。当時のぼくはそれを見、内心でさげすんでいた。ただの演奏に感動する精神が理解できなかったのだ。

 しかし、反転現象が起こったのは、鮮明に記憶している。母は講師という立場にある以上、発表会の終わりに、ピアノの演奏をした。時に、兄と連弾で。時に、親戚のバイオリン演奏と合わせて。

 素直に感動したのだった。

 皮肉だ。感動している親御さまを嫌悪しているのに、自分の親に感動するなんて。

 さきに述べたように、気持ちと言葉を同期させると、分かち合うことがある。かたくなに敵対していたぼくは、揺れた心を言語化しないよう努めた。距離を置きたいから、攻撃したいから。

 そんな自分がバカくさく思えた。多分、高校を卒業し、大学生になり、自分自身が苦労に直面した時、母への感謝を、言葉に表せるようになった。結局、ぼくは身勝手だったわけだ。そんな自分を受け入れてくれる、両親に今では感謝している。

 母へ――。

 ぼくのことを思いながらも、大変な労力を割いていた。それにもかかわらず、頭ごなしに否定し、敵視した過去を謝りたい。同時に今では、感謝をしてもいる。

 あのころのピアノの音が聞けない、ひとり暮らしの生活は寂しいものさ。あのころの「音」を、無理に再現して、自分の心を落ち着かせることもある、と最後に伝えたい。


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