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『沈黙する命』

【記憶】


 小学4〜5年生の時の話だ。


 竹やぶのような山に、叔父がぼくを連れていった。秋田県に住む、叔父の家からすぐそこのところ。目的は告げなかった。黙って山を上りきった。

 炭となった車が一台、場違いな空気を放ちながら、佇(たたず)んでいた。

 無神論者だが霊的なものを感じた。無言の圧力を受け、耳鳴りがしそうだった記憶がある。言葉にしがたい違和感。

 少し経って「昨日ここで、車のなかで『焼身自殺』した人の車がまだ残っている。お祈りでもしよう」。まだぼくは「焼身自殺」の意味を知らなかった。

 それでも、身と車を焼き自ら死亡したことだけは分かった。この時叔父はぼくに何を伝えたかったのだろうか?

 答は見つからない。訊くのもなんだか照れくさい。--おそらく、死者を弔うことの重要性を言葉以外の方法で説いたのだろう。

 自殺現場にいる自分が居合わせる衝撃より、車の放つオーラが強烈だった。もう動かないのに「出してくれ」と、言いたげな迫力が強かった。

 自殺するには理由があるはずだ。

 しかし、当時のぼくには想像する力を持ち合わせていなかった。ただただ、目の前の姿に圧倒されただけ。非日常的な光景を目の当たりにすると、想像力が失われるのだ。

 車体だけ遺され死没者は引き出されたのだろうか? 
 それとも車中にまだ「いた」のか。
 その記憶が不確かなことをぼくは今、思い出した。

【日本の絶望】

 それから十数年後、2023年今の日本--。

 日本は先進国としての地位を確立している。一方格差や貧困といったひずみもはらんでいる。そのひずみを象徴する一つ、「自殺(率)」を挙げたい。背景は多様だとしても、この国の異様な姿が垣間見られると思う。

 令和2年の自殺についてのデータをはじめ、情報を照らし合わせて、異常性を浮き彫りにしてゆきたい。

 --「年齢階級別に令和2年の死因順位をみると(中略)10歳から39歳までの死因 の第1位が『自殺』となった。年齢階級ごとの全死亡者に対する割合をみると、特に『15 ~19歳』、『20~24歳』及び『25~29歳』の年齢階級では死因の半数以上が『自殺』によるものであった」(令和4年版自殺対策白書より)。

 10〜39歳までの若年・壮年層の死因の1位が自殺だ。

 労働力を提供できる、労働人口の死因が自殺なのは極論、国が自己破滅の道を選んでいるとしか思えない。

 生産力不足--踏み込めば、少子高齢化が加速度的に進むのであれば、これらの年齢層が死去する「未然ケア」の強化が必要不可欠なのではないか。

令和4年版自殺対策白書より)

 人手不足がしきりに取り上げられている。超高齢化社会の懸念も報じられる。わたしたちも、肌感覚で危機意識を抱いている気がする。

 もちろん新生児がいないのは問題。

 同時に今ある「」が絶えている実態にも、目を当ててゆく、両軸での見方が求められていると思える。

【軸足】


 「少子高齢化対策」についての議論は、活発になりつつある気がする。

 出生率の低下を語る際に、「子どもを生まない・生めない」との論が中心になりがちだと、わたしには映る。当然、出生率が上昇するよう手当てを拡充するのは重要。

 実際に「児童手当制度」の導入や少子化社会対策大網(概要)など、手当の幅を広げる取り組みは進んでいると思える。

内閣府より)

 ところが、だ。

 さきに述べたとおり、労働人口の死因の1位が「自殺」である。この事実を鑑みると「子を持てる」日本づくり以上に、「生きる希望を持てる」日本づくりのほうが、優先度が高く思える。

 待ったなしの課題なのだ。

 自殺対策に関する予算は「〈令和4年度予算における対応〉 令和4年度には、28.7億円が計上され、引き続き、地域の実情に応じた自殺対策を講じることが出来るよう、各種事業に係る支援を行うとともに(中略)地域における自殺対策の強化などの取組を支援している」(自殺対策の基本的な枠組みより)。

 この額は、後述する少子化対策の額より少ない。

 「自殺の原因に関しては「『健康問題』が(略)と最も多く、『経済・生活問題』(略)、『家庭問題』(略)が続いた」と、健康問題が多くを占めているのがわかる(令和4年自殺対策白書より)」。

 重要なのは、健康問題や経済・生活問題、家庭問題の予防策が、自殺(率)の減少につながっているかどうかだ。

 自殺対策の予算とは別に、それらの問題にリソースを投入していても、原因・背景が変わらなければ、空回りしていることになりかねない。

【原因の解体】

 「健康」といっても、なんの健康問題なのか、明記せず議論を進めようとしても、大雑把で乱雑な議論になりかねない。その乱暴さを基軸にした対策は、あまり意味をなさないようにもとらえられる。

 代替として、「健康問題」を細分化し、それがメンタル疾患なのか、他の病なのか記載があれば連携した「対策」を取りやすくなると思える。

 たとえば、友人がメンタルヘルスを抱えているとする。その人が勢いで自死する前に、声をかけることで救われる可能性があると思えるのだ。

 例として、精神疾患罹患者には、通院先で自殺予防の啓蒙をするなど、多額の予算を割かなくとも、身近な取り組みができるのではないか。

 タテ型の予防策から、連携した「ヨコ」型の対策へと推移すべきタイミングに差し掛かっていると思える。

【異なる規模感】

 さきに述べた、少子化対策についてだ。

 日本政府は少子化対策におよそ3.5兆〜4兆円の予算を割いている。データが直近のものでないため、増額傾向にあるのか、減額傾向にあるのか断定はしがたい。

少子化予算対策について

 予算規模があまりにも違う。

 わたしは額の違いに違和感を抱く。予算だけで、政府の本腰をいれて取り組んでいるのかは、判断しがたい。とはいえ、自殺対策の本気度がいまいち伝わらないのも書き記したい。

 周知と自殺予防に強化をいれるようになったのは、素直に評価すべきだと思う。ただ、その取り組みが途上にあるようにも映る。G7のなかで自殺大国というのに。

【なにができるのか】

 政府は頼れない--。

 このように、全否定はしたくない。一方では、少なくとも、対策に本気度を感じられないのは、素直な意見だ。

 暗中模索な社会で重要なのは、ささいでもいいから、相手を知る・知ろうと努めること、歩み寄ることなのかもしれない。ただでさえ、開いてある距離を、少しでも縮めてゆくことが「予算に頼らない」防止策だと思える。

 まずは、自殺の死因となる問題を細かく分ける。そのうえで、友人など、身近な人たちが自殺を冒しかねないか、危険信号をあらかじめ察知するのが、効果は小さいものの、増加する自殺(率)に歯止めをかける可能性があるのではないのだろうか。

 起こった出来ごとに圧倒される前に、起こりうる出来ごとを未然に防ぐことは、可能なのだから。そう信じている。

 今、国民参画型の取り組みが、このうえなく必要とされる時代にあるのではないか。

 意識ひとつで、救える命はあるはずだから。

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