ドラゴンの娘6
[時空の裂け目]
村では谷と呼ぶその場所には
心あるもののみが、たどり着けると言う。
たとえ同じ道をなぞることができたとして
意図を間違えば、決して、
たどり着くことはできない。
この世の果て。境目の場所。
ニライとラナイは道を急いだ。
村の大人について幾度も通った道。
いつもコツコツと歩き続けた道。
長い森の道を抜けた場所に
人影を見て、二人は立ち止まる。
目を凝らすと、それは見知った影だった。
竜の村の住人とは明らかに異なる彼の姿は
暗い森を背に光に浮かび上がるように見える。
彼の名はラダ。
数年前に森で凍えかけていたところを
村の大人に救われ、村に住み着いた少年だった。
ニライ、俺も行く。連れていけ、時空の裂け目に。
白い肌に細い金の髪。透き通る緑の瞳。ほっそりと少女のようでいて、低く響くバリトン。
彼は確かに少年であるのだ。
真っ直ぐなラダの呼び掛けにニライは体を固くする。
長老はラダについて、何も言わなかった。
ラダが共に行くのならば、必ず言葉があったはずだ。
そんなニライの不安に、ラダは呼び掛ける。
女二人だけで、ドラゴンにチャントが届くと思うのか。
ニライは思わず言葉に詰まる。
それは、彼女自身が一番危惧していたことだった。
ドラゴンを呼ぶためのチャントはいつも叔父たちが上げていた。
いつもは太い男声のチャント。内容を覚えては、いる。
しかし、届くかどうか。
ニライの不安に、ラダは畳み掛ける。
ドラゴンを呼べなかったら意味がないだろう。
俺も行く。全力でドラゴンに呼び掛けてやる。
確かにラダの歌は良く響く。
細い体に似合わぬ声量にはニライも一目おいていた。
ニライは大きく息をはく。
そして踵を向ける。
わかった。ついてこい。
道は険しい。決して遅れるな。
山には既に冬の気配がする。
ニライは時折立ち止まり、瞑目する。
木々に、風に、鳥に尋ねつつ
谷への道を辿っていく。
下草の多い険しい道のりに声を発するものもなく
三人はひたすらに、谷を目指した。
隙間なく生い茂る下草を払いつつ進む。
弾力のある鋭い草は、子供たちの体力を奪う。
歯を食い縛り、無言で進み続けるニライに
二人は必死でついてくる。
遠くから、地鳴りのような音が聞こえ始めた。
ニライの足が早くなる。
掻き分け続けた草の向こう側に
不意に視界が拓けた。
切り立った崖の向こう側に
大きな滝が流れ落ちている。
激しい水しぶき、辺りは一面靄でけぶり
視界はほとんど効かない。
水の流れ落ちる先に
うっすらと虹がかかっている。
谷だ。ニライが呟くと
後ろの二人も大きく息をついた。
思わず座り込みそうになるのをぐっとこらえる。
本番はこれからだ。
崖の縁ギリギリに荷を下ろす。
水と、僅かな果物を口にすると
三人はすぐに祈りの準備を始めた。
髪を整え、草の鎧を身に纏う。
毒消し草で煮しめた丈夫な皮の手袋と足袋。
同じ皮で顔も覆う。
竜の村に伝わる戦衣装。一族の正装だった。
ニライは大きく息を吸い込む。
本来であれば、村の大人が総出で行う儀式だ。
皮で作られた太鼓や角笛を鳴らし
ドラゴンを呼ぶためのチャントを唱える。
子供3人。届くものだろうか。
迷う心を振りきるように、大きく腕を回す。
ギリギリ背負えた、皮の大太鼓を打ち鳴らす。
ラナイの吹く角笛が、谷の空気を切り裂く。
ラダもまた、汗にまみれながら谷の岩を打ち鳴らした。
ふと、谷の空気が変わる。
靄は突然その濃さを増し
まるで何かを確かめるかのように
ゆらゆらと3人の周囲を漂い始めた。
ラダが、顔の覆いを下ろす。
そして、歌い始めた。
声変わりを終えたばかりのラダの声に
張りのある高いニライの響きが重なる。
高く低く、風に流れる響きは
谷の奥深く、吸い込まれていく。
歌が続くなか、滝の落ちる爆音のなかに
巨大な岩を落とすような低い響きが
どうん、どうんと、一定の間隔で混じり始めた。
二人の額に汗が吹き出す。
長い長い祈りの歌。
大人でも受けきれず倒れるほどの
強い力を秘めた歌。
低い地鳴りのような音は
徐々に、近づいてくる。
ニライとラダの体力も、もはや尽きかけている。
意識を失いかけた二人の姿に
ラナイは思い切り太鼓を打ち鳴らす。
その響きに我にかえったニライが、
喉の奥から音を絞り出した。
少女の咆哮が、長く尾をひいて、谷に響き渡る。
刹那、谷の奥深く、ぼうっと光が点る。
その光は不意に輝きをまし
まるで爆発するかのごとく溢れだした。
視界がすべて白く染まる。
子供たちは驚きと疲れでその場に倒れ伏した。
どれ程の時が過ぎたのか。
気を失っていたニライがふと目を覚ますと
崖の縁近く、岩のような影が三つ。
静かな眼差しでこちらを見遣っていた。
深い緑色の体躯。
長い首をもたげたエメラルドグリーンの瞳。
薄く大きな翼は畳まれて、からだの脇に
びったりと張り付いている。
時空を越えるもの。翼持つ知恵あるもの。
儀式は成功した。
谷の奥深く棲まう伝説の神たるドラゴンは、
その姿を今再び、人間の前に現したのだ。
ラダ。起きろ、ラダ。
肩を強く揺すられ、ラダは眉をしかめた。
ひどく疲れている。このまま眠りたい。
再びまどろむラダの意識に
ニライの言葉が染み込んでいく。
儀式は成功した。村へ帰る。
ドラゴンに乗れ。
思わず飛び起きて、ラダは顔をしかめた。
身体中に痛みが走る。
体力の限界は、とうに越えている。
起きた視界の端
岩のような影をとらえ
ラダは思わず身をを固くした。
心臓が早鐘を打つ。
顎が震えだす。
抑えが効かない。
それは神の化身。この目で見ても信じられない。
3体のドラゴンが、崖の縁にたたずんでいる。
果てしなく大きく深い気配に圧倒され
ラダは身動きすることもできない。
そんなラダの様子に構うことなく
ニライは畳み掛ける。
血の儀式は受けたのか。
ラダは、わずかにうなずいた。
自分の血液とドラゴンの毒を混ぜて
耐性を見る儀式を済ませたばかりだった。
耐性は充分ある、次は乗ってみろと言われていた。
そう告げると、ニライは僅かに首肯した。
震えの止まらないラダの様子に
心を静めろ、と、小さく呟く。
かれらは、こちらの思考を読む。
頭を空にして、ただ委ねることだ。
ラダは、震える肩を手のひらで押さえながら
強くうなずいた。
チャンスは一度きり。そう聞いている。
怯えて退いた人間は二度と受け入れない。
それが彼らの掟であると。
ラダは立ち上がる。
気遣わしげな様子のラナイに軽くうなずいて見せると
ラナイも僅かにに頷いた。
子供たちは再び帷子を調える。
そして、静かに歩きだした。
待ち受けるは翼持つ神の化身。
深き緑の知恵ある瞳。