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【第2章】日の心、月の心

2023年10月出版『日月神示に学ぶ ひふみの生き方』の全文を各章・各チャプターごとに掲載しています。


今回は、第2章『日の心、月の心』を掲載します。




◎銀河のサイクルである「昼の周期」と「夜の周期」


陰と陽とに分かれ、さらに分かれると見るのは、
人間の住む次元に引き下げての見方であるぞ。
陰陽分かれるのでないこと、
元の元の、元の誠の弥栄いやさか知れよ。(夏の巻・第十八帖)


二二ふじ」から「不二ふじ」へ、つまり〈分離〉から〈統合〉へと至るプロセスは、簡単に言えば「忘れること」と「思い出すこと」だと言えます。


つまり、私たちは「もともと一つの存在である」という真実を一度忘れ、それを再び思い出すという過程を経ることで宇宙の深大さを知り、宇宙それ自体である自分自身の可能性を認識し、その弥栄によって至上の喜びを体験し続けて来たのです。(この「思い出す」というプロセスが私たちの世界で「悟り」や「覚醒」と呼ばれて来たものです)


私たちの一日に昼と夜が交互に訪れ、一年を通して四季が移り変わるように、宇宙にも様々なサイクルにおける昼と夜、あるいは春夏秋冬のような移り変わりが存在します。


銀河における昼と夜のサイクルは約1万3000年の周期で起こっており、「夜の周期」が訪れると銀河は宇宙の中心から離れ、創造主や宇宙の真実からの〈分離〉をより濃く体験することになり、「昼の周期」が訪れると銀河は再び宇宙の中心に近づき、すべての存在は一つであることを思い出し、宇宙の理に沿った生き方に帰って行くのです。


私たちが生きて来た地球は、長らくこの銀河のサイクルにおける「夜の周期」にあり、私たち人類は宇宙の根本的な構造である〈分離と統合〉のしくみを忘れたまま生きて来ました。


そのため人間同士はもとより、動物も、虫も、草木も、神々も、すべては本質的に異なる別の存在であるかのように思い込み、他者との分断や対立、あるいは支配や排除といった行為を続けて来たのです。


◎これまでの地球は闇夜に閉ざされた「悪の世」だった


悪の世であるから、悪の人民世に出てござるぞ、
善の世にグレンとひっくり返ると申すのは
善の人民の世になることぞ。(富士の巻・第七帖)



神示では、文中何度もはっきりとこれまでの地球を「悪の世」だと明言しており、「夜の周期」の影響下にある「悪の世」だったために悪行がはびこり、悪人が上に立ち、善人や罪もない庶民たちが虐げられ、搾取される世の中が続いて来たのだと言います。


しかし、銀河のサイクルに過ぎない「夜の周期」がイコール「悪の世」であるなら、私たちはそのサイクルの中にある限り、悪人ばかりが得をし、善人が損をするような世界を甘んじて受け入れなければならないのでしょうか?


◎宇宙の根源的な霊統「ヒツグの民」と「ミツグの民」


世の元からヒツグとミツグあるぞ。
ヒツグは誠の神(元なる神々直系)の人民ぞ、
ミツグは外国(傍系ぼうけい)の民ぞ。(上つ巻・第三十二帖)


地球上においても、昼を好み、昼を主体に活動する「昼行性」の生き物と、夜を好み、夜を主体に活動する「夜行性」の生き物たちがいます。


これと同じように、宇宙には「陰陽」(光と闇)と呼ばれる根源的な極性があり、宇宙のあらゆる存在たちがこの2つの極性のどちらかを強く持ち、それぞれその性質を発揮し、表現しながら生きているのです。


神示ではこの2つの霊統を〈ヒツグの民〉と〈ミツグの民〉、あるいは〈日の霊人〉と〈月の霊人〉と呼んでいます。


〈ヒツグの民〉は、「陽」(光)の性質を強く持った存在たちであり、「真」「善」「美」「愛」「信」といった表現を好み、調和の取れた関係や、平和で安心に満ちた社会を実現しようとします。


対して〈ミツグの民〉は、「陰」(闇)の性質を強く持った存在たちであり、「偽」「悪」「醜」「憎」「疑」といった表現を好み、「恐れ」の感情に基づいた分断と争いの社会を創ります。


また〈ヒツグ〉と〈ミツグ〉は、「火継ひつぐ」と「水継みつぐ」として宇宙の根源的なエレメントである「火と水」を象徴し、「霊継ひつぐ」と「身継みつぐ」として「霊体と肉体」あるいは「天と地」を象徴し、〈ヒツグの民〉は目に見えない霊の世界や宇宙の理を重んじ、〈ミツグの民〉は肉体的な物質世界を重んじ、宇宙の理に対立しようとする傾向を持ちます。


つまり、この世界にいわゆる悪人と善人がいることは、それぞれの魂の系統や性質に起因するものであり、それらは自然界における「火と水」、あるいは人体における「心と体」のように、互いに働き合い、バランスを取り合うことでエネルギーの均衡と調和を保っているということです。


これまでの地球は「夜の周期」の影響下にある〈闇の時代〉であり、「悪の世」であったため、悪人が力を持ち、裏社会を牛耳っては善人が貶められ、損をする世界でした。


しかし、それは〈ヒツグの民〉と〈ミツグの民〉が共に働き合い、一つなる存在に和合して行くための体験のプロセスであり、私たちはそれぞれの役割の中で夜の世界を学び、闇の暗さを学び、そして「夜の周期」を「昼の周期」に、〈闇の時代〉を〈光の時代〉に、「悪の世」を「善の世」に変えて行くためのバランサーとして何度となくこの地上に生まれて来ているのです。


神示には「岩戸開く役と岩戸閉める役とあるぞ」(上つ巻・第十八帖)とあるように、私たちが〈光の時代〉(昼の周期)の到来を導く役目であるのと同じく、マクロな視点で見れば、「悪神あくがみ」と呼ばれるミツグの神々も、その配下にある悪霊や悪人たちもまた、サイクルとしての〈闇の時代〉(夜の周期)を導く役目であり、その星や宇宙における弥栄のための大切な働きを担っているのです。


◎宇宙の根本には「善悪」も「優劣」もない


世界一目いちもくに見えるとは
世界一度に見える心に鏡磨いて掃除せよと言うことじゃ、
善と悪と取り違い申してあろうがな、
悪も善もないと申してあろうがな (青葉の巻・第十一帖)


しかし、ここで重要となるのは、私たちが考える「善悪」とは、この地上世界における一面的な価値基準に過ぎないということです。


宇宙の根源には「陰陽」(光と闇)という対極をなすエネルギーが存在しており、光の存在たちは「真」「善」「美」「愛」「信」を、闇の存在たちは「偽」「悪」「醜」「憎」「疑」といった表現を好むと言いました。


しかし、「善と悪」も「真と偽」も「美と醜」も「愛と憎」も「信と疑」も、それらはあくまで互いの性質における相対的な価値観であり、本質的にはただの性質であり、ただの個性に過ぎません。


決してヒツグの民が本質的な「善」であり、ミツグの民が本質的な「悪」なのではなく、ミツグの民がなそうとする「悪」は、時に世の中の膿を出すための「善」にもなり、ヒツグの民がなそうとする「善」もまた、時に正義を誇示するあまり対立や排除を生む「悪」ともなるのです。


つまり、宇宙の根源には2つの極性とその働き合いこそ存在しますが、私たちが考えるような絶対的な「善悪」や「優劣」は存在しないのです。


宇宙とは、「ただ大歓喜のみが脈うち、呼吸し、生長し、存在に存在しつつ弥栄するのである」(地震の巻・第一帖)と神示は言います。


また、「悪の世がめぐりて来た時には、悪の御用ごようするミタマを作りておかねば、善(だけ)では動き取れんのざぞ、悪も元を正せば善であるぞ、その働きの御用が悪であるぞ、ご苦労のお役であるから、悪憎むでないぞ」(空の巻・第八帖)ともあるように、宇宙のすべての存在はもともと善悪のない善、つまり「大歓喜」そのものであり、宇宙のサイクルである〈闇の時代〉(夜の周期)の中で現れる「悪」とは、大いなる「大歓喜」の中の御用(役割としての働き)に過ぎないということです。


私たちは元なる創造主意識から生まれ、それぞれの個性として分かたれた存在ですが、光の御用であれ闇の御用であれ、その目的と営みのすべて(存在の本質)は「大歓喜」なのであり、ゆえにこの宇宙には「大歓喜」しか存在しないのです。


そうしてヒツグとミツグ、昼と夜、光と闇が共に働き合い、一度は分かたれた「二二ふじ」が「不二ふじ」となって一つに和合し、調和して行くことで弥栄し、宇宙の歓喜は永遠に連なり、繁栄して行くのです。



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