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いなくならない。
最近、『閉店します』という言葉を目にする機会が多い気がする。
近所の喫茶店、居酒屋にはじまり、車でよく行っていたCoCo壱や駅近くにあったブックカフェ(これは正確にいうと「閉店していた」だが…)、SNSでフォローしている本屋さんなど、いたるところで『閉店します』がひょこひょこと現れる。
おそらく、『閉店します』は宣言する側にとっては人生の岐路のひとつだろう。
苦難を乗り越えつつも、様々な事情を飲み込んだうえで決断した結果だと思うので、それなりの意志や、場合によっては無念さを伴いながら、発せられているであろうと想像する。
それが苦渋の決断である場合は、店主さんの心を慮ると本当にやり切れない。
しかしながら各々のお店に、実は開店当初から小さな卵として『閉店します』は誕生している。
ある日突然大きくなり孵化したのではなく、何かしらの理由を餌にして(経済的な理由や労働としての肉体的疲労の蓄積など、いろいろある)、店主やオーナーの心のなかでゆっくりと育っていき、どうにも大きくなりすぎた結果、殻が破られ吐き出てくることになったのだろうか。
いっぽう『閉店します』の宣言を聞くほうは、大抵の場合、突然だ。
いきなり目の前に、産まれた状態で現れる。
多くの人は“寝耳に水“の宣言に驚き、落胆し、勝手な妄想を膨らませたり、今すぐお店に行きたくなったりする。
例えば、旅先でみかけた知らない店舗の『閉店しました』にも人は勝手な想像をする。
残された建物が漂わせる空気感から「いつごろだろうか」「こんな定食があっただろうな」「やはり、出店場所かな」「うーん、実に惜しい」などと知りもしないのに殊更残念がってみたりもする。
なんて恐ろしいやつなんだろう『閉店します』というやつは。
ましてや多くのSNSには“いいね”という、欲求渦巻く解釈自由の恐ろしいボタンが付いており、閉店してまったく“いいね“じゃないのに、いつもより多めに“いいね”が付くことが精一杯の応援の証となったりする。
納屋文庫という小さな本屋には『閉店します』がいつ産まれるであろうか。
店主(父)にも私のなかにも、奴らの卵はある。
どれくらい大きくなっているかは誰にもわからない。
『閉店』するまで、心のなかにずっといる。