【全文公開】『ヴォーン・ウィリアムズは“ノブレス・オブリージュ”の精神の持ち主でした』──ヴァイオリニスト・小町碧 アルバム発売記念インタビュー
10代の頃よりロンドンを活動拠点とし、ヴァイオリニスト、作曲家、研究者、翻訳家、ライターとして、イギリス音楽の探究を中心に幅広い活動を続ける小町碧(こまちみどり)さん。
2017年に、イギリスの作曲家フレデリック・ディーリアスをフィーチャーする「ディーリアス・プロジェクト」を実施。翻訳書の出版、アルバムのリリース、演奏会の開催など多彩な活動で日本の音楽ファンを驚かせた小町さんが、2022年に新たにスタートさせたのが、同じくイギリスの作曲家レイフ・ヴォーン・ウィリアムズの生誕150年を記念した「ヴォーン・ウィリアムズ・プロジェクト」。
そのプロジェクトの皮切りとなるのが、7月1日に先行配信がスタートするニュー・アルバム『ヴォーン・ウィリアムズ: ヴァイオリンとピアノのための作品全集』です。
Apple Musicでは、6月24日に先行トラックとミュージック・ビデオが先行配信スタート。このアルバムやヴォーン・ウィリアムズにまつわるお話を、一部抜粋でお届けします。
2022年5月17日 東京
聞き手: ナクソス・ジャパン
ヴォーン・ウィアムズ・プロジェクトについて
──『ヴォーン・ウィリアムズ: ヴァイオリンとピアノのための作品全集』のリリース、おめでとうございます。このアルバムは、イギリスを代表する作曲家レイフ・ヴォーン・ウィリアムズの生誕150年を記念して立ち上げられた「ヴォーン・ウィリアムズ・プロジェクト」の一環として制作されました。
このプロジェクトを始めるに至ったきっかけや、プロジェクトの概要を教えてください。
(小町碧、以下“小町”)2017年に、イギリスの作曲家フレデリック・ディーリアスのプロジェクトを実施し、アルバム『カラーズ・オブ・ザ・ハート - ドビュッシー/ディーリアス/ラヴェル』および翻訳書『ソング・オブ・サマー 真実のディーリアス』(エリック・フェンビー著、アルテスパブリッシング刊)をリリースしました。そのプロジェクトの直後、イギリス側のPR担当者から、2022年がヴォーン・ウィリアムズの生誕150年なので、また何かプロジェクトをやろうと強くプッシュされました。
そこで、ディーリアス・プロジェクトのプロデューサーである音楽ジャーナリストの林田直樹さんに相談したところ、新プロジェクトの実施をご快諾いただきました。5月にBBC Radio 3でアルバムとプロジェクトが紹介され、7月にはアルバム配信開始、8月にはCD販売開始とクラウドファンディング、秋にはサイモン・ヘファーによる評伝『レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ』(仮)の翻訳本の刊行と東京・王子ホールでの記念演奏会──と、盛りだくさんのプロジェクトです。
BBC Radio 3の放送(日本からの再生可/英語)
Vaughan Williams 150 | BBC Radio 3
ヴォーン・ウィリアムズは「ノブレス・オブリージュ」の精神の持ち主
──ヴォーン・ウィリアムズはどのような作曲家ですか。
(小町碧)ヴォーン・ウィリアムズは、イギリスの国民的なヒーローといえる作曲家で、交響曲、協奏曲、室内楽曲、合唱曲など幅広いジャンルの作品を作曲しています。20世紀前半に800曲以上のイギリス民謡を収集し、それを自身の作品に取り入れることにより「イギリス音楽」という独自のスタイルを確立させた、とても重要な作曲家です。イギリス人は冷めていて、手放しで自国や自国の文化を褒めないところがありますが、近年、世界的にベンジャミン・ブリテンの人気が出たことをきっかけに、ヴォーン・ウィリアムズを含む他のイギリス人作曲家も注目を集めるようになりました。
ヴォーン・ウィリアムズはつねに「ノブレス・オブリージュ」(noblesse oblige)の精神を抱いていました。自分は高貴な存在であり、それゆえに社会に貢献しなければならないという意識です。彼の作品のなかでもっとも人気が高い「揚げひばり」(トラック3)は、1914年の第1次世界大戦勃発の直後、イギリスの東海岸で戦争に向かう戦艦を眺めながら書いた作品といわれており、戦争によって壊れていく自然の美しさをせめて音楽で書き留めておきたい、という反戦の想いが現れています。彼はのちに自ら志願して従軍しますが、それも戦争から人々を守りたいという意志ゆえの行動であったと考えられます。
──このアルバムでは、ヴァイオリンとピアノ版の「揚げひばり」が演奏されています。ヴァイオリンとオーケストラ版を耳にすることのほうが多いので、新鮮に感じました。
(小町)「揚げひばり」は、この時代としては画期的な、神秘的で静けさに満ちた作品です。ヴァイオリニストのなかには、オーケストラと一緒に演奏するからと、この作品をヴィルトゥオーゾ的に派手に弾く方もいますが、オーケストラ版より早く書かれたヴァイオリンとピアノ版の楽譜をよく読むと、作曲者のイメージしていた世界がそうした華やかな雰囲気とは異なることがわかります。この録音を聴いて意外性を感じていただけたら嬉しいです。
──収録作でほかに意外性を感じられる作品はありますか。
(小町)「ヴァイオリン・ソナタ イ短調(第1楽章)」(トラック4)と「ロマンスとパストラーレ – ロマンス」(トラック1)は、それぞれ異なる驚きを感じられる作品です。
「ヴァイオリン・ソナタ」は、晩年(82歳)の頃に書かれた、複雑なハーモニーをもつ、血のにじむような生々しい感情に溢れた作品で、ヴォーン・ウィリアムズの一般的なイメージとは異なります。アルバムはこのソナタを中心に、前後に軽めの作品を置き、バランスを意識してまとめました。
アルバム最初の1曲「ロマンス」は、1912年(40歳)の頃に書かれた、初のヴァイオリンとピアノの編成の作品で、あまり演奏されませんが非常に美しい曲です。アンコール・ピースにもぴったりの曲調と長さなので、日本のヴァイオリニストにも広めていきたいです。
これらを含め、ヴォーン・ウィリアムズにはまだ知られていない作品がたくさんあります。日本では電話の保留音でおなじみの、エドワード・エルガーの「愛の挨拶」と同じくらい有名になってほしいですね(笑)。
交渉に5年──ヴォーン・ウィリアムズの生家での撮影
──トラック1の「ロマンス」は、ロンドン郊外で撮影された映像作品もあり、Apple Musicで6月24日より先行配信が始まっています。家やその周辺の風景の美しさに圧倒されましたが、こちらはヴォーン・ウィリアムズが幼少期に過ごした家だそうですね。
(小町)この家があるリース・ヒル・プレイスは、ロンドンから車で1時間ほどの場所にあります。家はもともと、ヴォーン・ウィリアムズの母方のルーツである、陶磁器メーカーとして有名なウェッジウッド家が所有していました。まさに彼の人生の「原風景」といえる場所です。実際に訪れてみて、彼がこの家で育ったときからある景色が変わらずに残っていて感激しました。
演奏を撮影したのは、普段はソファやテーブルが置かれているリビング・ルームです。ヴォーン・ウィリアムズ自身も、友人を招いてよく演奏会を催していたそうです。55人がやっと入るくらいの小ぢんまりとした場所です。
この家での撮影にあたっては、ヴォーン・ウィリアムズ協会や所有者であるナショナル・トラストと交渉し、約5年を要しました。その5年の間にパンデミックが起こり、彼らのデジタル配信への理解が進んだことが、実現の後押しになりました。非常に貴重な映像なので、ぜひ音楽とともに楽しんでいただきたいです。
ナショナリズムを超えて──日本でイギリスの音楽を、イギリスで日本の音楽を
──お話をお伺いして、ヴォーン・ウィリアムズがイギリスで愛されている作曲家であることをあらためて感じました。日本人である小町さんが彼の作品の演奏や研究活動をすることについて、イギリスの人たちからはどのような反応がありますか。
(小町)有利な面と難しい面があると感じています。
最近は、Black Lives Matterなどの人種差別への抗議運動が盛んで、白人かつ男性の作曲家に重きを置くことに対して批判の声が強いです。しかし私のように外国人としてヴォーン・ウィリアムズを追究する立場であれば、公平性とインターナショナルな観点を重視するBBCのようなメディアには取り上げてもらいやすいです。この意味では、日本人であることは有利といえます。
一方、アカデミックな世界においては、一部のイギリス人の研究者たちは、母国の大作曲家を自分たちで守りたいという気持ちが強いです。時々、差別を感じる局面もあります。イギリスで博士課程に進む際、ディーリアス やヴォーン・ウィリアムズを研究テーマにすることも視野に入れていましたが、そういった事情による限界を感じて断念しました。
しかし私の役割は、イギリスの中でイギリスの音楽を演奏・研究するにとどまらず、日本でイギリスの音楽を広めることだと考えています。また、イギリスにおいては逆に日本の音楽を広めていきたいです。そのため、博士課程では武満徹を研究テーマとして選びました。今回の一時帰国(2022年5月)も、武満作品の資料調査を目的としています。
──武満徹は日本の国民的作曲家、ヴォーン・ウィリアムズはイギリスの国民的作曲家ということで、共通点がありますね。
(小町)ヴォーン・ウィリアムズが「ノブレス・オブリージュ」の精神を持っていたのと同じく、武満徹もまた、自分の果たすべき役目を強く意識していた作曲家です。この2人の人生や音楽に対する姿勢は、いちアーティストとして非常にためになり、学ぶことが多いです。
この2人は必ずしもナショナリスティックな作曲家ではありません。むしろ彼らに共通しているのは、国や宗教の違いを超えて在るスピリチュアルな要素です。ヴォーン・ウィリアムズは、自分は不可知論者であるが音楽には神秘的なパワーがあると信じている、と語っています。武満もまた、宗教色の強い人物ではありませんが、日本の伝統的な宗教に由来するスピリチュアルな要素をごく自然な形で音楽に反映させている作曲家だと思います。
昨今の音楽の聴かれ方との相性
──このアルバムは、7月1日から配信がスタート、8月26日にCD販売が開始される予定です。CDとダウンロード配信では、小町さん自身が執筆された充実した解説を読むことができます。
一方で、ストリーミング配信だと、文脈に拠らずに、新譜やプレイリストの一部として先入観なく曲に触れるリスナーも多いです。ヴォーン・ウィリアムズの音楽のスピリチュアルな要素や、ロマン派音楽のようなドラマティックな起伏が少ない作風は、そうした昨今の音楽の聴かれ方とも相性が良いのではないかと感じました。
(小町)パンデミック以降、イギリスでもヒーリングやウェルビーイングのための音楽が注目されていますし、イギリスのクラシック作品はそうした聴かれ方に向いていると思います。
ヴォーン・ウィリアムズは、「人々のための音楽」を意識的に書き続けた作曲家です。だからこそ、彼の作品は人の心に響きます。彼が作品の中で用いている民謡は、日本のリスナーにとっても受け入れやすく、「ヴァイオリン・ソナタ」の晦渋さもまた国境線を超えて多くの人に届きうると思います。
このアルバム以降の、出版や演奏会などのプロジェクトにもぜひご注目いただき、ヴォーン・ウィリアムズへの興味を広げていただければ幸いです。
──とても楽しみにしています。ありがとうございました。