ギンザ・グラフィック・ギャラリー「菊地敦己 グラフィックデザインのある空間」へ行ってきたとのこと
いまから20年前頃、いや、もう少し前か。グラフィックデザイナーという職業は鉤括弧付きの「クリエイター」として、羨望の眼差しを浴びる対象にあった。『広告批評』なんてお堅い名前の雑誌も当たり前に書店に並び、それなりに売れていた。俺も買っていた。そんな時代があった。
往時、彗星の如く現れたニューカマー、それが菊地敦己さん。俺は彼に対して、そんな印象を持っている。
脂の乗り切った男性たちが切り開いてきた“広告界”に対し、Less is More的--というと乱暴だがーーな美的感覚が称揚され始めていた頃。菊池敦己さんのデザインは、要素を削ぎ落としながら、それだけでなく、ラディカルでもあり、一味違った洗練の極北にあった。
勝井三雄信奉者であった俺も、彼のデザインを「おん? こりゃええやん」と思っていた。
それから数年後。菊地敦己さんとは(俺にパワハラをかまし、後にハメ撮り動画販売疑惑で話題になった写真家が開催した)酒席で同席し、彼がかつて経験した脳損傷からくる失語症?にまつわる話を聞いた。対象を指す言葉は理解しているけれど、発話ができない時期があったという。いわんや俺は酩酊しており、詳細は一切記憶していないが、なんとなくあたたかい言葉をかけられたような気分は残っており、その経験は俺の人生における一つのシャイニーなトピックとなっている。
苦境を乗り越え、有事があったとすら気にさせない第一線で活躍する若手デザイナー。「なんちゅうかカリスマ性や」と話を聞いた。(ロゴデザイン受注額の恐るべき金額を聞いていたのも、受容に影響してはいそうであるが……)。
ただ、俺がデザイン界隈から離れ(かつて広告デザインを主とする出版社に勤めていた)、マス広告への関心が薄れていたこともあり、氏の以降の活動についてはほとんど認知できていなかったーー「パンとエスプレッソと」のロゴデザインを担当したと知ってはいたという程度ーー。
ただ、なんのきっかけか菊地敦己の展覧会が開かれていることを知り、「いまどんなものを作っているんだろうな?」「ひとまず行ってみようかな」となった。
して、キタ。銀座。
銀座を歩いていると、周囲の人々があまりにもラグジュアっていて、自身の見窄らしさが情けなくなる。
ギンザ・グラフィック・ギャラリー。
「平面上の空間」と「空間上の平面」との関係性を探るインスタレーション3点が展示されるという同展。
入場してすぐにあるのは、線と面で構成された白黒のポスター。
近づいて見ると、線や面に色の指定が入っている。が、色見本はついておらず、CMYKの比率や特色の番号も記されていない。「赤」「黄」といった曖昧な単語があるのみ。
いったいどんな完成形になるのか。頭の中でイメージしながら室内を周ると、裏面に指定された通りの配色がされたポスターが展示されている。
が、「想像していたものとは、やや違った仕上がりやな」という印象を受ける。なぜか。そもそも「赤」「黄」といった言葉が曖昧で、各々が浮かべる色が異なるからである。さらに、線と面で構成さている時点では、遠近法が無視されており、モチーフの前後関係を知覚できていないというのも、想像とのズレに繋がっているのだろう。それが、彩色されるや、途端に奥行き、Z軸の光景まで浮かび上がる。
はあ、なるほど、これが「平面上の空間」と「空間上の平面」ってことなんやね、となる。
その後も、線面構成のポスターを見て想像を膨らませては、彩色されたそれを見る。ぐるぐる室内を周っていると、表裏に設置されていない1組の作品がやけに気になる。そして、その作品は、線面での指示が、彩色されたポスターと同期していない(線面で描かれているモチーフが彩色されたものにはない等)。
ポスター表裏がもたらす知覚のズレ。空間内で提示された、ある種のコードに慣れてきたところに、そのコードが破壊される。空間自体が歪むような感覚を覚える。シビれる。
して、上気しながら地下の展示室へと降り、次の作品を観る。KOIZUMI製のサーキュラーがポスターをはためかせている。
対面の壁には同じデザインの印刷物が立派に額装されている。なんだ? はためかせることによって生じる視覚の揺らぎから何かを掴み取ってくれということなのか? マチエールの話なのか?
解説が記されたパネルを読むと、出力用紙の差、要は最終的なトリートメントが作品の認識にどのように影響を及ぼすのかといった取り組みなのだという。
3作目。
既視感たっぷり。青森県立美術館のVIと同じ書体か? 以外に特筆することがなかった。俺が作意をつかみとれていないだけだろうが、え? しょうもなくね? と夢から醒させられるような気分に。
ただ、入場直後のインスタレーションに、これまで得たことのない感覚を覚えたのは間違いない。クリティカルでありながら、ビジュアルの魅力も備えている。「グラフィックデザイン」の「展示」はある種の誤謬を孕むものだが、こりゃインスタレーションの「作品」として成立しとるやんケ。となる。
なんだ。変わらず菊地敦己はグラフィックデザイン界のスターだな、となる。そんなところ。