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中年女性、ADHDに頻繁に間違われること

私は友人数人からADHDだと言われ続けている。
自分でもそう思わないこともない。しかし私はADHDではない。

一度は心療内科でIQテストと面談を受け、精神科医に診断された。
別の機会に臨床心理士によるカウンセリングでもはっきり違うといわれた。

そもそもなぜ検査を受けたかと言うと親に「お前は絶対ADHDだから検査を受けてこいテレビで見た特徴とそっくりだ」と言われたからだ。

自分でもそうかなあと思ったので受診したが、違うと言われ、詳しい説明を受けると腑に落ちる。

ADHDと診断要件は多岐にわたるがそのうちの一つに「実生活が困難であるか」があげられる。どれくらい困難かはそれぞれの感じ方なので、医師やカウンセラーとの面談では子供のころからの生活態度などを細かく聴かれる。

詳細は省くが、私はIQテストでひとつ「普通」の項目があった。
普通なのだから問題ないはずなのだが、ほかの項目と比較するとその「普通」は「出来ていない」になり、私自身は日常生活に支障があると感じるわけである。
しかし面談では、苦手部分をカバーする工夫をしているはずだと指摘された。

たしかに、私は短時間にワーーーと言われると話が頭に入らなくなるので、録音したり、会話の中でアンカー(と私が勝手に呼んでる)というキーワードだけを覚え、あとでアンカーからメモを起こしたりなどをしている。
アンカーは指と連動させて覚えるのだ。

■指とアンカーを連動させたお話の覚え方の例
【おはなし】
昔々あるところにおじいさんとおばあさんがいました。
おじいさんは山へしばかりに
おばあさんは川へ洗濯に行きました
おばあさんが川で洗濯をしていると大きな桃がどんぶらこ、どんぶらこと流れてきました

【覚え方】
・右人差し指に「昔」というワードをアンカーとしてアサイン
・左中指に「山」をアサイン
・薬指に「洗濯」をアサイン
で、あとから指を見て、アサインしたアンカーから前後の文章を思い出す。

なんであったか忘れたが記憶をインプット、アウトプットする際に手をタイプライターを打っているかのように動かす癖のある架空のキャラクターがおり、そこから着想した気がする。
昔はこのアクションをするときの脳にかかる負荷が好きだったが、最近は年のせいか億劫だ。覚えておこうという気すらなくなったのは良いのか悪いのか。

とまあ、何が決定的にだったかはわからないか「発達障害ではない」と診断された。

一方で臨床心理士の先生には別の視点で発達障害ではないと指摘を受けた。
私の場合幼少期の育成環境が不安定で、それが社会への恐怖、緊張につながっており、その症状はADHDのそれと似通う部分もあるそうだ。

社会への不安障害と発達障害は一部症状が似ているそうだ。だが原因は全く異なるため対処方法も異なる。

その診断は専門家でも難しいそうだが、その事に加え昨今は猫も杓子も発達障害というトレンド性もあり、本当はPTSDにも関わらず適切なケアや治療がされず、自分をADHDだと思って生きている人が結構多くいるそうだ。

私の友人の何人かは私を「絶対にADHDだから病院にいけ」と言う
既に2度診断を受けている事を伝えても納得はしてもらえず、「先生によって診断が違うらしい」と言わる始末。私がADHDと診断されるまで検査を受け続けないと納得しなさそうである。

私が自分でADHDの特徴に当てはまる、あてはまらないと感じる部分は以下だ
■該当
・おちつきがない、集中力がない、凡ミスめっちゃ多い

■非該当
・衝動性が低い、計画性がある、整理整頓が好き

やはり違う気がする。
凡ミス傾向は残念ながら高く、致命的なミスはほぼないがくだらないミスを連発するので非常にストレスが溜まる。
作業スピードと精度がかみ合わない。
ADHDなんじゃないのか?と自分で思うのはこの1点くらいだ。

では友人らが私をなぜ頑なにADHDにしたがるか。
それはもしかして空気が読めないからではないだろうか。
私の考える「ここまで言っても(やっても)大丈夫だろ😊」は一般的に結構切れ味があるらしいのだ。

失言を繰り返して悩んでいる友人がいた。
本人が反省しているようだったので、私は「でも、その年までそれで生きてきたのであれば、無理に変えようとしないほうがいいんじゃないの」と言った。すると、別の友人に「あなたが一番ひどい」と言われた。
変えられないことで苦しむのなら、そのままの自分を受け入れる自己肯定も一方で大事なのではないかと思ったのだ。
言い方に配慮が足りなかったのかもしれない。
「今」ではなかったのかもしれない。

また自分は、自分の行動や発言に対して、基本的に理由や意図を明確に説明できる。ただ、そのせいで感情的な共感や曖昧さが入り込む余地が少なくなり、相手からすると「揚げ足を取られている」ように感じると言われることがある。

空気が読めなと言われるのはもしかしたら、物事の着地点を目指しすぎているのかもしれない。
感情を置いてけぼりにするつもりはないのだが、結論のない話は恐ろしくもあるのだ。

嫌な思いをさせたのだろう。それは申し訳ない。
でも衝動的に思ったことを口にしてしまうわけではなく、ちゃんと考えたうえで言った言葉が空気読めてないらしいんだ。本当に申し訳ない。(2回目)


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