レイナスの夢
「尖り」という魔法
2021年世代。牡馬にはエフフォーリアを筆頭に、シャフリヤール、タイトルホルダー、シュネルマイスターにピクシーナイトなどの優駿が名を連ね、牝馬にはソダシを筆頭に、ユーバーレーベン、アカイトリノムスメ、メイケイエールにファインルージュといった名牝たちが揃う。見事なタレントぞろいの期と言ってよい。
そんな優秀な同期たちの中で、サトノレイナスの名もまた輝いていた。
だが、彼女がダービーへ向かうと聞いたとき、私の頭にとっさに浮かんだのは「制覇は難しい」という言葉だった。それは決して、彼女が弱いと思ったからではない。根拠の薄い、なんとも伝わりにくい表現ではあるが、彼女には「魔法のような何か」を感じられなかったからだ。それは、彼女に限ったことではない。2021年世代の牝馬には「魔法」の存在を感じられないのだ。彼女たちは、間違いなく強い。しかしそこにある強さは、抜きんでた暴力的な強さではなく、ひたむきに走る誠実な強さなのだ。
牡馬を相手に活躍する牝馬には、ある共通点がある。それはみな暴力的なまでの強さを持つということだ。ヒシアマゾン、エアグルーヴ、ウオッカ、ジェンティルドンナやアーモンドアイ、グランアレグリアやクロノジェネシスなど。どの牝馬も、自分の得意とする会場、あるいは馬場条件で、恐ろしいほどの力を発揮した。他馬を寄せ付けない、圧倒的な存在感。その強さは時に論争の嵐を呼ぶほどのものだった。
翻って、2021年世代の牝馬に、そうしたある種の暴力性があるだろうかと思うと、不思議とそれが感じられない。みんなで頑張り、みんなで強い。かといって抜きんでた者がいるわけでなく、それぞれ得意も苦手も少しずつ持っている。実に「尖りのない」世代だ。……例外として一頭メイケイエールというピーキーな天才少女がいるが、その能力には気性という枷がある。
思えば、ダービーを制した牝馬としてサトノレイナスとの比較対象に挙げられたウオッカは、決して優等生ではなかった。目の覚めるような圧勝を見せたかと思えば、悪い夢ではないかと思うほどの凡走もある。しかし、優等生ではないからこそ、魔法のような時間が訪れることがある。その魔法が、牝馬のダービー制覇には必要なのだ。さもなくば、魔法をも必要としないほどの圧倒的な能力差が。
そこまでのものがあの時のサトノレイナスにあるとは、当時の私には考えられなかった。
それでも「愛される名牝」という夢
それでも、彼女の走りには、それとは違う不思議な魅力があった。
サトノレイナスと言えば、と尋ねられれば、多くの人が「剛脚」「直線一気の末脚」と答えるだろう。おそらくは、あの桜花賞で見せた上がり3ハロン32秒9という強烈な末脚が脳裏に焼き付いて離れないからだ。
だが私の彼女に対する印象は少し違った。初めて彼女を見たのは6月の新馬戦。コーナーから最後の直線に出たとたんに、ポンと手前を替える。基本的な器用さを備えた、優秀な馬。それが第一印象だった。
その印象はレースを重ねるごとに変わっていく。次第に、スタートの不得手さや、スパートの合図に対する反応の遅さが目立ってきた。さらには、直線に出たところで一度手前を替えると、その後はどれだけ長い直線でも一度も手前替えを行わない癖。もちろん、手前を替えればよいというものではないので一概には言えないが、私の印象はだんだんと「素直だけれどもあまり器用ではなく、ひたむきだが反応は鈍めの子」というものへ変わっていった。
そして思った。「この子はきっと勝利以上に愛される名牝になる」と。
白毛馬、九州産馬、12冠ベイビーに、人気沸騰のステゴ血統。同期の子たちが背負う看板は、どれも派手な謳い文句になっている。
だが、このサトノレイナスは、その走りそのものに魅力がある。いつ来るか、本当に来るのか、間に合うか、間に合わないのか。その反応の鈍さとともに、けれどひたむきに走る姿は、追い込み馬の醍醐味ともいえるスリリングさを与えてくれる。真面目な優等生のはずなのに、どこか危うい。決して気まぐれなわけではない。懸命に追い込んでくるが、いつもちょっとだけスパートが遅いのだ。その姿は、愛らしいとさえ思えた。勝利をひとつ重ねるよりも、走る姿そのものに魅了されるだろう。そう思っていた。
夢の終わりと続き
しかしその夢は、唐突に終わりを迎えた。後肢の骨折と聞いた時、天を仰いだのは私だけではないはずだ。後肢の怪我は、競走馬の怪我の中では比較的珍しい。そして、後肢は推進力を生みだすためのエンジンのようなものだ。しかもコズミ(筋肉痛のようなもの)や挫傷などというものではなく、骨折。これが意味するところは、彼女の競走生活が危機に瀕したということを示すものに他ならない。
果たして、2月9日付けで競走馬登録の抹消が発表された。ひたむきに走る彼女に、魔法のような奇跡は起こらなかった。
今でも思い描いてしまう。秋華賞でハラハラしながら彼女の末脚を待つ夢を。2着に甘んじ続けた重賞戦線で、ついに1着を手に入れる日が来るその瞬間を。おそらく、どこで勝つにせよ彼女はギリギリだっただろう。あの反応の鈍さでは、決してずば抜けた圧勝などは描けなかっただろう。わずかに遅れたばかりに喫する僅差負けも、いくつも見せてくれただろう。それでも、歓喜の瞬間を確かめたかった。今はもう、夢の中の夢でしかない。
2021年世代、牝馬組。彼女たちは、改めて競馬というものの難しさを教えてくれている。あの夏以降、ソダシは前向きな姿勢を見せてくれなくなった。ユーバーレーベンは屈腱炎から復活しようともがいている。ヨカヨカは事故で競走能力を失った。アカイトリノムスメはまだまだひ弱な印象がぬぐえない。メイケイエールはようやく光を見つけたように思えるが、その能力を発揮しきれるかは未だわからない。
競馬を見つめてきた者は知っている。GⅠ勝利を重ねるよりも、愛されるGⅠ未勝利馬がいることを。誰もが諦めかけた最後のレースで、はじめて夢の栄冠を手にした馬がいることを。期待されながらも、最後までその期待に応えられなかった馬がいることを。そのどれもが名馬であり、名牝であるということを。
そして、同時に知っている。だからこそ、競走馬の一勝は重く、グレードの栄冠は奇跡に近いということを。
20年後、サトノレイナスという馬は、ダービーに挑んだ僅か2勝の牝馬として語られることになるかもしれない。だがこの時代を目に焼き付けた私たちは忘れない。彼女は紛れもなく名牝であった。そして、ひたむきに走り続けた、力強くもどこか不器用な、愛らしい馬であった。
サトノレイナス号
2018年2月26日生まれ。
父ディープインパクト、母バラダセール。
母父Not For Sale。
生産 ノーザンファーム。
馬主 サトミホースカンパニー。
戦績 5戦2勝、2着2回、5着1回。
主な勝ち鞍 サフラン賞(1勝クラス)
名馬の条件は、勝利のみにあらず。改めてそれを教えてくれた名牝。
いまは、第二の馬生で彼女が女王たち(レイナス)の母になる日が来るのを心から祈りつつ、拍手で送り出したい。