いい大人たち
出社して早々、上司に「髪、切った?」と聞かれた。「いや?切ってないですよ。」と答えた。
「あれ?そうなの。なんか印象が違うなあ。」向かいの席の視線から逃げるようにいそいそと席に座り、デスクトップで頭を隠した。
ちょうど内線を受けた上司は、もうこちらを見ていなかった。
実のところ、髪は切ったのである。全体の長さを少しと、前髪の分け目を変えた。でも、バレないようにわざわざ加減したのに、目敏い奴だ。やっぱり前髪は少しのことで印象が変わってしまうから、気をつけないと。なぜわざわざ嘘をつくのかというと、これを答えた後の会話が苦痛だからである。
「髪切った?」
「はい、切りました。」
「 」
「可愛いね」「似合うね」「イメチェンだね」「大人っぽく見えるね」「若く見えるね」
ここに入るのは、だいたい相手からの誉め言葉だ。わざわざ「似合わないね」なんてひどい事を言って女子の心を掻っ攫うイケメンなどうちの会社にはいない。そう、例えば、資料片手にチラリとこちらを見た後で、サラッと「いいじゃん。」とかは、素敵だけれど…。
いくら妄想をしたところで、現実は違っている。いい歳をした、いい大人たちは、無難な褒め言葉を当てはめておくものなのだろう。
その無難な褒め言葉を探している様子が、ものすごく苦手なのだ。
「お〜、似合ってるね。」この「お〜、」が耐えられない。別に感嘆の声をあげるようなことではないのに、とりあえず時間を稼ぐために「お〜、」と言っているのが丸分かりではないか。
「お〜、似合ってるね。」「いやいや…ありがとうございます。」
取ってつけたような感想に、取ってつけたような感謝に、特に意味はない。
髪を切ったかどうか、かろうじてある相手の興味はそこで終了だ。
そんな歯切れの悪い1日の始まりにうんざりして、(私的)必殺処世術“髪を切ったことを認めない”を試みたわけである。
嘘がバレたらバレたで、「いや〜なんだか咄嗟に嘘ついちゃったんですけど、やっぱりバレますよねえ。本当は、切りました!」なんて笑っておけば、「なんだよその嘘!」という楽しい会話になり、意味のない会話はせずに済むだろう。
そんなわけで、退屈な会話を凌ぐために、意味のない嘘を幾度となくついてきた私にとって、この日は転機となった。
いい大人だらけのこの会社を、辞めることに決めたからだ。
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