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図面というオワコンメディア

魅力的な文章を書く人に憧れがある。

自分の書く文章はつまらない。

問題を切り分けて整理して箇条書きのように文章を書くのは得意だ。ロジカルシンキング的な。自分で言うことではないが、いわゆるビジネスパーソンに必要な文章読解能力と記述能力は持ち合わせていると思う。でも、とにかくつまらない。

魅力的な文章だと思うのは、たとえば、千葉雅也や東浩紀。同世代で言えば福尾匠や三宅香帆。人文書の世界で各世代の先頭を行く人の文章は魅力的だ。内容以上にその文体にあこがれる。三宅さんがご自身で文体についての文章を書いていた。

人文に精通する方であれば分かる通り、私は人文系の本には疎い。上記でも有名な方々の名前しか出せていない。実際、有名な人文書しか読んでいない。人文書は社会に出てから後発的に読み始めた。国語は一番苦手な教科だった。そういった私のような人間には業界内(あるいはアカデミック)に評価を受けるプロパーな文章よりも、観客を意識した彼らの文章が心地よい。

三宅さんは文体を想定読者によってテクニカルに使い分けている印象だ。人文に疎い私でもつっかからずに読める実感がある。とにかくスッと頭に入ってくる。福尾さんの文章はソリッドでありながら、突然、痛快な抜けのある文が差し込まれるような印象。連続的でないような違和感と起承転結には納まらない展開の多彩さに翻弄される。端的にかっこいい。文章のカッコよさにあこがれたのは初めてだった。千葉さんや東さんの最近の文章は歴戦を潜り抜け、多くの観客を動員した後の包容力を感じる。難解さを包含しながらも最後まで読者を離さないような、読ませる力があるのだろう。

翻って自分のことを考えると、おそらく魅力的な文章を書くことは一生できないだろうと思う。なんとなく、テクストに向かうときの感性が乏しい気がする。それこそ、文体の違いに敏感に気づくことはできない(上記のように印象でしか語れない)し、生成AIの方が自分より全然いい文章を書く。と、思っている。

さらに自分を貶めると、具体的なビジュアルについての感性もあまりない。

2024年に少し流行った『ビジュアル・シンカーの脳』という本を読んだ。
言語ではなくビジュアルで絵的に思考する筆者の体験と研究から生まれた本だ。ある種当事者研究的な著書と言っても良いだろう。

この本の中にある思考タイプの判定テストをやってみた。18問の「はい」か「いいえ」で答えるテストで、「はい」が10以上であれば視覚(空間型)思考タイプの可能性が高いとのことだ。結果はちょうど10だった。視覚思考タイプっぽいがずば抜けているわけでもない。

同書の中で気になる記述があったので引用する。

視覚思考者は十把一からげにできない。二種類いるのだ。物体視覚思考者は、写真のように正確なイメージでまわりの世界を見る。グラフィック・デザイナーや画家、目端のきく商売人、建築家、発明家、機械工学士、設計士などがそうだ。一方、空間視覚思考者は、パターンと抽象的な概念でまわりの世界を見ている。音楽や数学が得意で、統計学者、科学者、電気技師、物理学者などが当てはまる。コンピュータープログラマーに空間視覚思考者が多いのは、コードにパターンが見えるからだ。二つの思考の区別を、こんなふうに考えてみよう。物体視覚思考者はコンピューターを組み立て、空間視覚思考者はプログラムを作成する。

『ビジュアル・シンカーの脳 「絵」で考える人々の世界』テンプル・グランディン著

私は建築設計の仕事をしているが、ここでいう物体視覚思考者には該当していない。写真のように正確なイメージで世界を見ているわけではなく、パターンと抽象的な概念でまわりの世界を見ている。ここでいう、空間視覚思考者であろう。グラフィックデザインや視覚表現における完成や建築設計におけるデザインセンスは自分の中からは見いだせないと感じる。

では、どこに自分の得意分野があるかというと「図面」である。

建築について学んで、設計の業務をこなしているうちにわかってきたのは、「図面」に対する敏感さは人一倍あるということだ。ダサい図面とかっこいい図面。分かり易い図面と分かりにくい図面。そういった図面に関する判断に自信がある。ダサい図面を見るとすごく嫌な気持ちになるし、人になにか複雑な事象を説明するときに分かりにくい図面を持ち出す者に嫌悪感を覚える。

建築設計という仕事は図面を描く仕事だ。天職だと思う。
いや、正確には、思ってい「た」。

なんで過去形かというと、いずれその職能は不要になるからだ。言い切ってしまってもいい。図面というメディアは必要なくなる。複雑な事象を分かり易く切り出したり、イメージで視覚的に伝えたり、そういったツールとして図面はあったわけだが、その役割はいずれ他の物に代替されていくだろう。代替するのは生成AIであったり、建築業界においてはBIMであったりするだろう。

しかし、自分の得意分野であるということもあり、どうも諦めきれない。ある種、図面というメディアにしか宿らないコミュニケーションも存在する。先述の本からもう一文引用してみよう。

バルモンドはあるインタビューで、「協力関係にある第一級の建築家たちは、私の脳の働き方を認識していて、建築技術の可能性について私がもっている建築の感性とぴたりと合う。建築と建築技術は抽象という面で重なっている」と述べた。ニューヨーカー誌の人物紹介記事「反重力の男」では、「コラボを始めた当初から、レムは建築が物足りないと考え、私は構造的な建築技術の仕事全体が物足りないと考えた」と語る。こういった物足りなさを何とかしたいという気持ちが互いを補ったのだ。二人は共通の言葉を見つけた。というかコールハースによると、「ほとんどテレパシーで語り合っているようなものだった」。

『ビジュアル・シンカーの脳 「絵」で考える人々の世界』テンプル・グランディン著

「建築と建築技術は抽象という面で重なっている」というセシル・バルモンドの言葉が印象的である。ここにおける抽象を媒介として支えるのが図面であると思う。建築意匠ー建築構造という関係性に限らず、他分野と抽象的な面で繋がりを保つメディアとして図面がある。コールハースはアイロニカルにテレパシーと言うかもしれないが、そういった抽象で物事をつないでいく力こそ、建築家には必要なのだろう。

ところで、図面にも文章における「文体」のように「図面体」のようなものがある。
「図体」だと「ずうたい」になってしまうので、ここでは仮に「図面体」とした。
それは、プレゼントを渡すときにその包装を考えるように、図面の意図(伝えたい内容)と自分の思想に応じてチューニングされる。
図面体は実務的な図面(平面図、立面図、断面図等)の役割からすれば、あまり必要のないものでもある。
いわゆる建築士が作成する設計図書は「工事を実施するために必要な図書で、設計の内容を示す書類。図面(設計図面)・設計書及び仕様書・その他の書類(現場説明事項書や構造計算書等)。」である。ようは、つつがなく工事を実施できる情報さえあれば成立はする。
ところが、図面には図面体のようなものが宿ってしまう。そういった雰囲気のようなものを後世の人々は感じ取って、あらたな創造が生まれていると思う。

図面体という考えからすれば、今現在の実務的に必要な図面である図面だけでなく透視図(パースペクティブ)のようなものもある種の図面として考えたほうがよいだろう。
著名なペーパーアーキテクトたちは実際に建物を建てることは少なかった(あるいは無かった)かもしれないが、後世の建築家に大きな影響をあたえて、間接的に様々な先進的な空間が生まれた。

自分の図面に対するオブセッションはどうにも拭えそうにない。
図面というより図面体か。

どうしたらよいだろうか。とりあえず、図面という営みを残していくように努力するしかないだろうか。

ひとりで?

ひとりでできる気がしない。
だれか協力してくれる人はいないだろうか。

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